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大都会に佇立せよ、あたかも木であるかのように──『PERFECT DAYS』の感想

「きれい」な人生なんて歩めるものではない。そんなもの偽善だ。「きれいさ」に焦がれるというのは、汚れていることの証だ。むしろ、自らが汚れているということを知るべきだ。そしてその汚れを知っているものだけが、汚穢にまみれながら汚穢のなかに澄んだなにかを見出すことができるのだろう。「きれいさ」とはその汚穢に他ならない。

ヴィム・ヴェンダースが新作を撮った。『ベルリン・天使の詩』(1987年)を観て以来、好んで観ている映画監督である。ここに感想を述べておきたい(約4,500字)。


自然に生きる

自然に生きるとはどういうことだろうか。それは、循環のなかに身を置くということである。その自覚を持つということである。循環とは何か。閉じた構造のことである。命が失われたら他の命の糧になる。そしてその他の命も死んだらまた別の命を養うことになる。命が失われていないのに糧が増えることはないし、命が失われたのに、それがまったく何かに寄与しないということもない。それが閉じているということだ。そして、自然に生きるための近道は、規則正しい生活を送ることである。日の巡り、月の巡りにあわせて、己の身の振り方を決める。それはひとつのサイクルを回していくことである。自然に生きることを知っているひとは、循環ということを、円(あるいは縁)ということを、とても大事にする。敬愛する桜井章一然り、土井善治然り、である。そして平山もまた、規則正しく循環的な生を送っている。だが、東京という街は自然に生きることが極めて難しい場所だ。そのことについては後述しよう。


road movie

役所広司演じる主人公の平山は規則正しい生活を送りながらトイレ清掃員の仕事をしている。朝早くに起きては同じように準備をし、働き、そして眠る。その静かな生活はまるで木のようである。人間でたとえるなら修行僧のようだ。そしてこの映画はそんな木としての平山の生活を描いた「ロードムービー」である。どうして規則正しく生きている人間のいつものルートあるいはルーティーンがロードムービーになるのか。どうして狭い範囲しか移動していないのに「旅」になるのか。

いいや、逆である。旅は1000kmあれば当然可能だが、10kmでも旅になりうる。1kmでもなりえれば、動かずとも旅をすることもできる。たとえば読書はゼロ距離の旅である。移動を限りなく0に近づけると、気づきは微分的になる。どんな小さな変化も鮮やかに感じ取ることができる。静とはいうが、それは小さな動きでさえ目立つという意味で、極めて動的なものである。とはいえ平山も全く移動しないわけではない、清掃すべきトイレ間の移動では自動車を使うし、週末には自転車で行きつけの居酒屋に出向いたりする。そこではさまざまな出来事が起こる。それらの出来事は、木のように静かな平山に吹き付ける一陣の風のようである。風が当たって、葉が揺れる。枝が揺れる。そうすると木漏れ日も形を変える。


asleep

一日が終わって平山は木造アパートに帰ってくる。役所広司が木造アパートで静かな生を送ろうとしているところはどことなく『すばらしき世界』(西川美和監督・2020年)を思わせる。タイトルも類似している。「すばらしき世界」と、「完璧な日々」と。思えば、「平山」という名も、ヴィム・ヴェンダースがリスペクトしている小津安二郎の映画によく出てくる役名である(『東京物語』で笠智衆が演じたのも「平山」だった!)。

さて、その平山が眠りに就くと、白黒のモンタージュが現れる。夢を見ているのだろうか。眠っている間にひとは起きている間の出来事を整理する。白黒のパターンが変化していく様は、平山という人間、あるいは木のざわめきが凪いでいく過程のようだ。そしてすぐに朝がやってくる。平山は空を見上げる。


tree

東京の空にはスカイツリーが聳えている。この映画を観て気付かされたことのひとつに、スカイツリーも「ツリー」だということがある。高く聳えるあの塔こそ、すぐれてツリー的なるものだ。ツリー構造。モレなくダブりなく分けられた静的な構造。その象徴としてのスカイツリー。カメラはそのスカイツリーをまるで本当に木であるかのように仰ぎながら映す。さながらこの「大木」も平山の手によって世話される対象であるかのようだ。この東京という街全体が、このツリーによって覆われているような印象を受ける。もちろんこの「木」からは木漏れ日が差すことはない。この「木」は街を見下ろす。だが、すべてが見えているわけではない。ツリー的な人間には見えない、いや、見ようとしない領域がある。


toilet

街やトイレがきれいなのは誰のおかげかなんてことは、多くのひとが気にしないことだ。誰か掃除してくれているひとがいるからきれいなのだが、そんなこと考えようともしない。そのひとがそこにいたとしても目に入れようともしない。目に入れるとしても軽蔑的なまなざしをしか送ろうとしない。だが、街やトイレをきれいにしているのは間違いなく彼ら彼女らだ。きれいな景観を楽しみ、快くトイレを使うことができるのは、彼ら彼女らのおかげだ。わたしたちは「きれい」という。土井善治は、日本語では、真善美という、人間にとって最も大切な一切を、日常的に「きれい」と言うと述べている。平山は東京のトイレを「きれい」にしている。ただ、美しく清潔にするのではない。そこには「真」と「善」が伴っている。平山の生はよい、まことのものだ。そこに驕りがあろうはずはない。

平山はまるで木のように、置かれたところで生きている。これは現代人、特に東京人に求められる心性とは相容れない。いや、わたしは今「東京人」といったが、そう述べたときに名指しているつもりのものと、そこからこぼれ落ちていく「きれい」なひとたちとの関係についてこそ、述べたい。東京では「きれい」に、自然に、生きることが困難だ。


barehanded

イギリスのジャーナリストであるディヴィッド・グッドハートは「Anywhere」な人々と、「Somewhere」な人々を分けている(宇野常寛『遅いインターネット』)。「境界のない世界」を生きる人々は「Anywhere」に、つまり「どこでも」生きていくことができる。それに対して、「境界のある世界」にその心を置いてきてしまった人々は「Somewhere」つまり「どこか」を定めないと生きていけない。一見、この二分法は境界のない世界の住人と境界のある世界の住人とに二分されているかのような印象を与えるが、それは錯覚である。わたしたちが生きる世界はすでに経済のレベルでは境界をなくしているからだ。それゆえに「壁」を求めるひとが増えているという話だ。そして宇野常寛はこの二者の本質的な違いを「世界に素手で触れている感覚」の有無にあるとしている。Anywhereな人々が世界に素手で触れている感覚を持っていて、Somewhereな人々はそうではないのだと。もちろん、「世界に素手で触れる」というのは幻想の話であると筆者も留保している。あくまで、人間は幻想を必要としてしまうのであり、問題はどのような幻想を必要とするかである。

「東京人」とは相対的に「Anywhere」に生きることのできるひとを指している。置かれたところで咲いている平山とは違い、運命(fortuna)をねじ伏せて、自己実現していくという生き方をする人々だ。そのひとたちにとっては、どこの世界も繋がっているように感じられるし、自分が手を加えれば世界を変えることができると信じることができる。平山の生きている世界について「いろんな世界が繋がっているように見えるが、そのなかでどことも繋がっていない世界」というにふうに述べられる部分がある。まさしく、「Anywhere」な人々にとっては世界は繋がっているのだし、啓蒙しさえすれば「Somewhere」な人々も繋がると信じている(平山の妹は「Anywhere」なひとである)。

だが、東京には「東京人」だけが暮らしているわけではない。「Somewhere」な人々もそこにはいる。平山のように置かれた場所で生きているひとがいる。彼は置かれた場所から離れることなく、その仕事を全うしようとしている。清掃の準備には余念がなく、掃除を実行をした後は、その後始末をしっかりつける(同僚のタカシは易々とシフトに穴を開けて仕事を辞めてしまう)。仕事終わりは銭湯で一番風呂に身を蕩かす。週末はいつものように決まった居酒屋で飲み、いつもの古本屋で文庫本を買う(幸田文の『木』はわたしも大好きな名エッセイだ)。特定の範囲で「小さく」生きている平山は「Somewhere」なひとであり、世界に触れていないかのようだ。

……本当だろうか。世界に素手で触れるというのは幻想の話であったが、幻想ではなく、物理的、現実的な意味においては平山は世界に素手で触れてはいないだろうか。人間の排泄という「現実」、植物が刻一刻と育っては枯れていくという「現実」があるのは平山の側ではないだろうか。手づから便器の汚れを落とし、その同じ手で、小さな木の芽の世話をする。たしかに「東京人」には「世界に素手で触れている」という幻想はよく見えている。だが、「現実」は何ひとつ見えちゃいない。他方の、真に「ローカル」な東京人としての平山は「現実」に素手で触れている。日々新しく、「現実」と出会いなおしている。平山や、平山のようなひとが東京のトイレを清掃しているということは、「東京人」には「見えない」。だが、回路がないわけではない。どこか「外」に平山がいるわけではない。公園のベンチに座って「横」を見てみれば、平山は「普通に」存在しているものだ。迷子になった子どもや家出した姪は平山に「出会う」ことができる。あるいは投壜通信の趣を呈している○×ゲームの先には平山がいる。そして、ホームレス風の不思議な男と平山との間には妙なコンタクトがある。繋がりのない世界同士は、その繋がらなさゆえに繋がるという逆説を感じさせる。ここには「Anywhere」な人々の繋がっている世界とは別の繋がり方がある。


自然に生きる、再び

東京という大きなツリーにはそれを下支えしている根っこがある。その根は見ることができないし、誰も見ようとしない。だがたしかに、そこで、地中で、現実に触れ合っているひとがいる。彼は木のように受動的に、規則正しい生活を送る。そこに外からの風が吹いてくることもある。そこに束の間、波紋が生じる。木の葉や枝が揺れる。そしてまたいつもの規則正しい生活に戻っていく。この受動的な生を平山が「選んだ」瞬間はあった。だがそれがどのようにしてかは描かれていない。父との関係性が暗示されるが、はっきりとはしない。妹と姪とハグをして、二人が帰っていったあとに号泣しているシーンは胸を打つ。あるいはまた、映画の最後に平山の表情を映したロングショットは、平山がこの「完璧な日々」に抱く相反する感情を思わせるものであって、どこからやってきたのかわからない涙が流れた。この映画に感じる素晴らしさのひとつは、平山の半生について具体的な描写があるわけではないのに、彼の心の揺れを感じることができるということである。演技が素晴らしいのはいうまでもない。この映画を観ていると、私もまた「きれい」さに同調していく。澄んでいく。だから、微細な変化にも、揺れる。

平山という人物は、都会においても、木のように生きることが可能であるということを示してくれた。そしてそこには静けさだけではなく、ふとした風に揺れてしまう可能性があること、静けさの代償として、満足感とともに悔恨にも似た感情を抱えねばならないだろうことをも同時に教えてくれている。

平山にならうことができるだろうか。彼に繋がろうとすることは、まずはトイレをきれいに使うことからだろう。そして、汚したらきれいにしてから立ち去ること、自らの手でもって掃除することだろう。

雅の「Girls, be ambitious.」の歌詞を思い出している。最後に引こう。

この穢れた手でもしよければいくらでもさしのべてあげる
道しるべなんていらないから目つむったまま一緒に歩こう

ナイフってのはね、
刺す時よりも抜く時の方が痛いんだって知ってた?
花は一生、自分が綺麗だって事すら知らないんだってね
「哀しいね」

MIYAVI「Girls, be ambitious.」


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