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my new gearと言いたくない

my new gear...

 新しい楽器を買った。スペイン語で「箱」や「抽斗」を意味するこの楽器は本当にそのまま、中からなにかが「引き出さ」れてきそうな「箱」の形をしている。弾いたり吹いたりする楽器もいいが、弦(つる)というよりも、管(くだ)というよりも、内奥を宿し、そこで響いた音がまろび出てくる、というこの楽器がどうにも好ましい。ようやく機が熟して買うことができたのがうれしくて、こんなとき思わずmy new gear...なんて言いたくなる心の流れがあるけれど、それこそ遍在する権力に言わせられているのだ、と足止めをする自分がいる。
 音楽の(と限定はできないかもしれない)一側面には反体制、アンチ権力というのがあるはずで、わかりやすく大きな政府や社会に反対する時代は終わったが、ならばいっそう微細な権力には敏感でないといけないのではないか。つい頭を下げそうになるだとか、つい愛想笑いしてしまうだとか、そういうところに悔しさを感じるように、身近なところにも遍く拡がっている同調圧力やだれかと一緒がいいという思いにも気づかなきゃ……と内なるバンドマンが猛っているよ。確か坂口安吾だ。文学は反抗することで当の反抗しているものに協力するものだ(どこに書いてあったのか見つけられないが……)。ボードリヤールなら次のように言う。

反演劇が演劇を証明し、
反芸術が芸術を証明し、
反教育が教育を証明し、
反精神分析が精神分析を証明する

ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』

 うれしいことだからこそ安易に口にしたくない、というのはある種の残心だろうか。それとも、わたしにとってのかけがえのないこの邂逅だからこそ、もっとも安直なといってもいいような語り口には任せたくはないという「エゴ」だろうか。とはいえ、「〈わたし〉の宣言にはわたしの死が構造的に必然的である」。「わたし」はこの〈わたし〉だけを指す語ではなく、あなたにとってのあなたのことでもあるのであって、「わたしは……」と語り始めた時点でもう〈わたし〉は特異的ではない、共同的な存在となる。自慢は他者の他者として自分をなぞりたいという欲求のはずで、my new gear...はそこにわずかな恥じらいを含んだものだ。誰かの耳目を集めたいが、大声でひけらかすのは避けようとして、共同性の影へ半ば身を浸す。

(こうしてわたしはカホンについての話を先延ばしにする…)

いきさつ

 実は欲しいという気持ちは7,8年は温めていて、ようやっと、今だ、という流れのようなものが来た。かつてはドラムを叩いていたこともあったけれど、手で「たたく」という始原的なムーヴに惹かれる思いがあって、ぐつぐつ煮えていた、煮詰まってきていた。
 何度か詩の朗読会に参加したことがある。そのときには身一つで、原稿や本を持ち、それを読むという方法を取っていたが、どうにも頼りなかった。それは朗読の経験の少なさによるものだったのかもしれないが、それだけではなく、なにか詩が音を必要としていたからでもあったと思う。明瞭なビートが欲しいわけでもない。きれいなメロディーが欲しいわけでもない。ただ、虚空へと(実際には聴衆がいるわけだが)声を放つのは、見えない手を差し伸ばして、なにかを手繰ろうと、誰かの手を取ろうとしているようでもあったわけで、そのときにその腕を支えるものがあったらいいのにと感じていた。腕を伸ばしてそれが落ちると何かにぶつかる、そのときの音が響きをもったものであれば弾みがつくのでは、と思っていた。

 昨秋シネ・ヌーヴォで観た『背 吉増剛造×空間現代』というドキュメンタリー映画があって、詩人・吉増剛造さんとバンド・空間現代によるパフォーマンスの記録なのだが、吉増剛造さんのガラスを「たたく」姿が、というよりはハンマーで打たれて響くガラスの音が耳に残っている。ものがぶつかるということ、接触するということ、それがわたしにはおもしろいらしい。

 茸好きでも知られる『4分33秒』の「作曲者」ジョン・ケージは次のように言っている。

長い間、茸そのものの音を聞きたいと願っていましたが、非常に優れたテクノロジーによって実現されるでしょう。茸からは胞子が落下しており、それが地面を打ち付けるからです。音がするのは確かです。

ジョン・ケージ『ジョン・ケージ著作選』

 何かと何かが接触するところに発生するものがある。それが物質なら音がする。聞こえないだけで微細な茸の胞子も、それがたとえば地面に当たるときには音が鳴っている。わたしたちの身体もそうで、お腹が鳴る音やいびきはわかりやすく聞こえるけれど、腸の蠕動にも音が伴わないはずはないし、耳をふさげば血流の音がホワイトノイズのようにして聞こえる。まるで死みたいに命の音が聞こえるよ。異なるものがぶつかるときに鳴る音のおもしろさは、映画『The Memory Lane』でもよく感じていたことだった。

ものの地平

 何でも管理しようとしたとき、不/幸にも、ひとはものに似てくる。例。この工程にはこれだけの時間がかかって、そこで用いられる機械はX、そして機械Xはこれだけ使用したら摩耗するので減価償却費はこれだけ用意しよう。この工程で用いられる材料はAだ。AがいくつあればBがこれだけ作られる。失敗する確率はこんなものだから、それだけ差し引けばこれくらいは完成できるだろう。この工程に従事する作業員はCとD、Cは熟練しているからこれぐらいの効率係数をかけて、Dにはもう少し小さな係数を。でもこの作業員もいつまでも元気なわけじゃない。これだけ働いてもらったら作業員たちも年を取り、働けなくなるので、それまでには後進を育てて人材を補充して……。ひともものも格納されるマスターが異なるだけで、互いにぶつかりあいながらなにかをつくっていると言えるのではないか。材料も、機械も、ひとも、皆がひとつの項として参与し、「もの」をつくっているのだと。

 だがこれは管理しないまでも、明らかな事実でもあるのかもしれない。ひともある種のものなのだと、ここがはじめから「ものの地平」だったのだと考えることもできるのではないか。わたしは今、文章を書いているが、この間にもわたしは刻刻と崩壊しているのであり、死にゆく過程にある。同じくわたしが自分の指を何度もたたきつけるこのキーボードにも寿命がある。まったくのジャンク品になる前に、壊すところは壊し、直すところは直してリサイクルされ、また誰かの元で使われ、そして最終的にはどこかの埋立地を構成することになったり、マイクロプラスチックとなって大海を漂うことになったりするのだろう。が、どこかでこのキーボードにも、キーボードとしての終わりがやってくる。マウスしかり、ケーブルしかり、机しかりである。
 あるいはノコギリを引いて木を断ち切り、ハンマーと釘を使って椅子を組み立てる。ノコギリは切れ味が落ちてきたら目立てをせねばならない。切れ味がよくなったらまた使って、刃が鈍って、そしてまたメンテナンスをして、ということを繰り返す。そうしていつか、もうこれ以上どう刃を研いでも使い物にならないというときがやってくる。その時はもしかしたらあなたが生きている間にやってくるかもしれないが、まだ使えるうちに誰かに譲るかもしれない。遺品として後の世代の誰かがもらい受けることもあるだろう。ノコギリも壊れゆく過程にあり、ハンマーも釘もそう、材料となる木はもっと速く朽ちるだろう。そしてそれらを扱っているところの人間もまた、死にゆく過程にある。
 その速度を置いておきさえすれば、あらゆるものはいつか崩れ去るという点で同じく「ものの地平」にある。無常観だと言って詠嘆するような湿った感傷ではない。乾いた事実である。
 その意味で、何かを作る過程とは、壊れゆき、死にゆく過程にあるものたちが互いに身をすり減らしながら、別の何かを待ち設けることだと言うこともできるはすだ。

Cajón

「箱」と出会ったというひとつのことを書くのに時間がかかる。この「箱」にたくさん触れて/触れられて、たたいて/たたかれて、何かを待ち設けてみたいというただそれだけのことが言いたくて、あちらこちらへと彷徨してきた。やってこないかもしれない詩句を、あるいは詩句にまでも至らないなんらかのリズムを、待ってみようと思う。この身を、この木製の「箱」とゆっくり削りあいながら。

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