葦田不見

詩とエッセイ。毎週更新中。エッセイ「水のからだ」で第2回三服文学賞大賞受賞。第一詩文集…

葦田不見

詩とエッセイ。毎週更新中。エッセイ「水のからだ」で第2回三服文学賞大賞受賞。第一詩文集『 不/見 』発売中🥑 ご連絡はXやInstagramのDMからお願いします。 ◇朗読動画◇ https://youtu.be/1dNplif9nI8?si=xb6asYg9McU_0re9

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  • ヴィパッサナー瞑想

    ヴィパッサナー瞑想に参加したときの感想一覧です。初めての参加が2018年11月、2回目が2019年3月、3回目が2023年10月です。

  • バイク免許合宿

    バイクの免許合宿に行ったときのnoteをまとめています。

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    狩猟関連のnoteです

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    詩文集『不/見』

    葦田不見の第一詩文集です。2018年12月出版。手製のブックカバーをお付けして、お送りいたします。ブックカバーはひとつひとつ手作業で紙を切って、折って、重ねる、という作業を経て作っていますので、それぞれ微妙に異なっています。それは、わたしたちの身体が、制作が、あるいはその際生まれる裂傷が、どれも異なるのだ、という本書のコンセプトとも通じ合うものです。ご理解ください。 また、ブックカバーに用いていますトレーシングペーパーとは、tracing、traceする「なぞる紙」であり、あなたがこの一冊の本を読む過程をも、なぞるようにして読んでほしい、という願いが込められています。 表紙絵:airi maeyama氏
    2,000円
    葦田不見(Ashida Mizu)
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    《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》図録

    大阪・中崎町のイロリムラにて行われました、airi maeyamaと葦田不見による絵と詩の二人展 《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》(2020.3.18-3.23)の図録です。 12組の絵と詩が収録されています。15cm四方で、原寸サイズです。全24ページ。 見開き左ページに葦田不見の詩が、右ページにairi maeyama氏の絵が配置されています。 以下、展示のコンセプトです。 画家・airi maeyamaと詩人・葦田不見は、異なる12種類の紙にそれぞれが絵と詩を描き/書き、そこから神経衰弱のようにして12ペアを作りました。それは、偶然性の入り込む余地をあえて設けるということです。線とは、何かを隔てるものである一方で、何かを結びつけるものでもあります。私たちが常識として扱っているものも、はじめは偶然結ばれたものであって、何度もなぞり直しているうちに、それが「当然のもの」になってきたのでしょう。人が通ったところから土が踏み固められていって「道」になるのです。夜空に浮かぶ星座たちも、かつてはただの白点の集合でした。 では、そんな常識をもう一度、偶然の渦の中に放り込んでみてはどうだろうか。いつもとは違う点と点を結んでみてはどうだろうか。そんな思いで、私たちはあえてテーマも決めず、12枚の絵と詩を突き合わせました。そこには、いかにも似つかわしいような照応関係を見出だせるものもあれば、歪に見えるものもあるでしょう。でも、そこに何かしらの関係、あるいは非関係をあなたが見出だしてくれたこと、それがとても貴いことだと思うのです。ただの白点を結び、それをオリオン座と呼んだひとがたしかにこの地にいたのです。 「ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ」。「わたし」というひとがいる。「あなた」というひとがいる。そして、そのあいまに棲まうひとがいる。「わたし」は乾いて固まった一つの塊ではない。「わたし」は私でありながら、私ならざるものでもあり、でも、私ならざるものでしかないのでもない。「わたし」はあいまにいる。「あなた」が見出だしてくれた「あいま」、そこはおそらく「わたし」が刹那の偶然にすぎないことを、でもだからこそ切なくいとおしいものだということを知ることのできる地点ではないでしょうか。必然、とは、確と掴みなおされた偶然の謂いではないでしょうか。
    2,000円
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    詩文集『不/見』

    葦田不見の第一詩文集です。2018年12月出版。手製のブックカバーをお付けして、お送りいたします。ブックカバーはひとつひとつ手作業で紙を切って、折って、重ねる、という作業を経て作っていますので、それぞれ微妙に異なっています。それは、わたしたちの身体が、制作が、あるいはその際生まれる裂傷が、どれも異なるのだ、という本書のコンセプトとも通じ合うものです。ご理解ください。 また、ブックカバーに用いていますトレーシングペーパーとは、tracing、traceする「なぞる紙」であり、あなたがこの一冊の本を読む過程をも、なぞるようにして読んでほしい、という願いが込められています。 表紙絵:airi maeyama氏
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    《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》図録

    大阪・中崎町のイロリムラにて行われました、airi maeyamaと葦田不見による絵と詩の二人展 《ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ》(2020.3.18-3.23)の図録です。 12組の絵と詩が収録されています。15cm四方で、原寸サイズです。全24ページ。 見開き左ページに葦田不見の詩が、右ページにairi maeyama氏の絵が配置されています。 以下、展示のコンセプトです。 画家・airi maeyamaと詩人・葦田不見は、異なる12種類の紙にそれぞれが絵と詩を描き/書き、そこから神経衰弱のようにして12ペアを作りました。それは、偶然性の入り込む余地をあえて設けるということです。線とは、何かを隔てるものである一方で、何かを結びつけるものでもあります。私たちが常識として扱っているものも、はじめは偶然結ばれたものであって、何度もなぞり直しているうちに、それが「当然のもの」になってきたのでしょう。人が通ったところから土が踏み固められていって「道」になるのです。夜空に浮かぶ星座たちも、かつてはただの白点の集合でした。 では、そんな常識をもう一度、偶然の渦の中に放り込んでみてはどうだろうか。いつもとは違う点と点を結んでみてはどうだろうか。そんな思いで、私たちはあえてテーマも決めず、12枚の絵と詩を突き合わせました。そこには、いかにも似つかわしいような照応関係を見出だせるものもあれば、歪に見えるものもあるでしょう。でも、そこに何かしらの関係、あるいは非関係をあなたが見出だしてくれたこと、それがとても貴いことだと思うのです。ただの白点を結び、それをオリオン座と呼んだひとがたしかにこの地にいたのです。 「ひとと ひとと ひとの あい間 ゆ間にすむ」。「わたし」というひとがいる。「あなた」というひとがいる。そして、そのあいまに棲まうひとがいる。「わたし」は乾いて固まった一つの塊ではない。「わたし」は私でありながら、私ならざるものでもあり、でも、私ならざるものでしかないのでもない。「わたし」はあいまにいる。「あなた」が見出だしてくれた「あいま」、そこはおそらく「わたし」が刹那の偶然にすぎないことを、でもだからこそ切なくいとおしいものだということを知ることのできる地点ではないでしょうか。必然、とは、確と掴みなおされた偶然の謂いではないでしょうか。
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浪人時代、2ちゃんねるでシャンクスと呼ばれていたときの話

アメリカの詩人T・S・エリオットは、彼の代表作「荒地」をこのような一節で始める。「四月は最も残酷な月」("April is the cruellest month")という有名な部分は知っているひとも少なくないだろう。この季節は年度が変わるタイミングでもあり、多くのひとにとっては、新生活を始める節目となる。あるものは失意のうちに、またあるものは希望を抱きながら、この月を迎える。日に日に強さを増す陽気にあてられるせいもあってか、外を歩いていてもどことなく落ち着かないような気持ち

    • 20210627──たとえば詩集を三十分で読み終えて

      たとえば詩集を三十分で読み終えて きみはなにも読み終わらない それが一時間でも、一ヶ月でも、一年でも同じことだ 一生でも 四百万年の命を持っていても同じことだ きみは一歩を進み きみから二歩遠ざかる そして二歩目で近づこうとした頃には もうきみは四歩後ろにいる 帰路という旅路 大阪は遠い ぼくのことを探している詩人がいる ぼくがタンネという喫茶店できみの詩集を読んでいるとは きみはつゆほども思わないだろう 針山の中に紛れ込んだ芥子粒を 刺そうとぼ

      • 第2回三服文学賞で大賞を受賞しました

        こんにちは。葦田不見(あしだみず)です。この度、佐賀県嬉野市にある温泉旅館・和多屋別荘が主宰する文学賞、三服文学賞にて、大賞を受賞しました。光栄です。ありがとうございます。 このnoteでは、受賞にまつわる思いを書きたいと思います。 受賞の5日前ところで、話は今から1週間前に遡ります。東京で惰眠を貪っていたら、スマートフォンが鳴りました。知らない電話番号です。いつもは知らない番号からの着信は、電話番号を検索してからかけ直すのですが、このときはすぐに出た方がいいという直感が

        • ことばのせい──20220623

          黙っていれば ひとつだったふたり きみにふと暗い風が訪い わたしがどれほど美しいかと わたしでなければならないわけとを ひととおり語りおえたあとでわたしに 今度はきみがどれほど美しいかと きみでなければならないかを 語ってくれとせがんだ ぼくは最善を尽くし そしてきみでなければならないわけと きみがどれほど美しいかを言い尽くした それはうまくいった だからきみは失望した じぶんが言葉に尽くせぬほど美しく 言葉に尽くせぬほど代えがたいものだと 信

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          留年ばかりしていた私が大学で教員をすることになった話

          出身大学で教員をすることになった。今年度の後期である。わたし自身も驚いている。だって、わたしの最終学歴は大学学部卒だし、なんならその学部の卒業に7年もかかっているんだから。でも、学生時代にゼミやその他の授業でお世話になっていた教授からの直々の依頼だったので、逡巡の挙句、受諾した。もともとある授業が開講予定だったが、その担当教員の方がどうしても教員を辞退せざるを得ない状況になり、それでわたしに白羽の矢が立ったようだ。 誰が教えるのか、という問題はつねに、何を教えるのか、という

          留年ばかりしていた私が大学で教員をすることになった話

          saqaafat-e saqaafatライブレポ_20240416@京都GROWLY

          4月16日(火)、京都GROWLYにsaqaafat-e saqaafatのライブを観に行った。そのライブレポを書きたいと思う。このバンドメンバーとはプライベートでも仲良くさせてもらっているから、ライブ以外の場面でのメンバーの素顔といったものについても書きたい気持ちがあるが、とはいえ、バンドにとってはライブがすべてである。だからこの文章では「友達のよしみ」なんてものは封じ込んで、あえて禁欲的にライブがどうだったかだけを記したい。 saqaafat-e saqaafatとはs

          saqaafat-e saqaafatライブレポ_20240416@京都GROWLY

          20210517──さかみち

          生という傾きはたしかに死へと向かっているが そこに断崖があるなどと期待しない方がいい 煙草を吸い酒を飲み からだに無理言わせ 傾斜を鋭くするものも平坦さに焦がれるものもある わたしたちは永久に転がり続けるだけ ひとりでゆっくりと、あるいはすばしっこく 転がりゆく わたしたちは歩きゆく、走りゆく 調子を合わせたくてもむずかしいな ゆるやかな坂道だ、険しい坂道だ いずれにせよ坂道だ どれほど穏やかに歩を進めていたものも 加速するのをとめることはできない いつか、どこかで死が砕け

          20210517──さかみち

          ひとはなぜ詩を書くのか

          わたしにしては珍しくタイトルから書きはじめています。大風呂敷を広げていやがるな、なんてお思いの方もいるかもしれません。詩を書いていたり、詩について一家言あったりするひとならばなおのこと、このnoteを開くか開かないかのうちに、もう画面を消しているかもしれません。でもそれはある意味でこのnoteのよき読者としての態度であると思います。読む前から、このタイトルからある内容を想像し、そして消した。それは立派にこのnoteを読んだ者の反応ではないでしょうか。そして詩とは、そのように読

          ひとはなぜ詩を書くのか

          20230610──かめ滴く

          玄関先の灰皿の横には子どもの頭ほどの大きさの甕 元々は大家のかじこさんがくれた芋焼酎が入っていた 甕雫という上等の焼酎である それを住人で飲み切ってからはしばらく 古油を入れておく容器になっていた 天麩羅をしたあとの油を保管していたのである そのあとは清水くんが梅干しを漬けるのに使ったが 黴が生えてしまった 清水くんは悲しそうに中身を捨てた 今その甕は灰皿の横に置いてある 残った塩が結晶している 行儀よく正方形に凝った塩の粒たちは かえってぼくを不安にさせる 焼酎と油と梅干し

          20230610──かめ滴く

          バスに乗りこんで空を裏切る

          夜行バス4列 去年の夏頃から月に1度のペースで東京に行っている。いつも利用するのは夜行バスだ。はじめの頃は4列シートのバスを予約していた。4列のバスでは、座席が通路を挟んで左右に2列ずつ並んでいる。隣の席とくっついているから、友人や恋人と同乗する場合はいいけれども、赤の他人とわずか数センチの距離、場合によってはゼロ距離で一晩を過ごさねばならないというのは、なかなかに落ち着かないものである。体格が小さければまだいいのかもしれない。でも、わたし自身、身長が179センチあるくら

          バスに乗りこんで空を裏切る

          20180523

          耐えきれない夜と、ざらつきを溶かすアルカリの花、 受粉せよ 痛みを 花弁へ埋めよ その指を 遡れ、茎を 幾千の、細胞のよろこびをもう一度指にください どうかもう一度、 と願いながら、 (速:巨大な象の足の裏でにじられた日々を思い出して すっぽりと飲まれたよ、わたしは今、花の裏にいる) たどり着いた根で、逆さ向きの花を咲かせよ 誰にも見えぬ、指の花 (五つの花弁が各々に、残響をよばう) 見られなくてよい、土の夜で、 指紋が肥え、膨れ上がり、ひらいた (根毛、バクテリア) 色のな

          20210907

          心があるというのはつくづく不思議な事態だ。どれほど丹精込めてしつらえた家であっても、配管の感覚や床材の気持ちはわかることがない。というより、人間たるぼくにとってはそれらは感覚も気持ちも持つことがないとしか思えない。この肉にだけ生じるのだ。感覚は。触れ合ってしまい、否が応でも見られてしまい、そこが熱くなったり痒くなったりする。どうしてだ、それは心があるからだ。この感じを感じる部分。ただの物質ではない証拠。どれほど酩酊のうちにあっても、たまに帰ってこれるところだ。ここに心がある。

          20210303

          図書館では静かにしなければならないと誰から教わったのだろう。 静かにしなければならない理由としては、勉強している人がいるから、というのや、人が本を読んでいるのを邪魔しないように、というのがあるのだろうが、他に勉強していたり本を読んでいたりする人がいなかったとしても、騒ごうという気はなかなか起こらないように思われる。それもやはり誰かから教わり、それにしたがって図書館を利用してきた習慣の賜物だろうか。ぼくにはそうではないように思われる。 ぼくはまた寝ている人の近くを通るときに

          眠れない夜に

          おもしろいエピソードだ。西尾維新は極端だが、わたしたちは眠ることで「朝」を迎えることができる。朝になると、眠る前にはまったく思い付かなかったような解決法がいとも簡単に見つかったりする。別に問題を前にしているひとだけではない。眠ることで、わたしたちは新たな生を再開することができる。シオランならこう言う。 このところ、またも眠れない日々が続いている。眠れないのなら起きている間になにかしたらいいとは思うのだけれども、眠れないでいるときの覚醒状態というのはぼんやりとしたもので、何か

          眠れない夜に

          20240221──smoke shelter

          もう一時間と耐えられず 喫煙所とオフィスを往還する 行く前より後の方がすっきりするということもなく 帰ってきたからといって何かが捗るということもなく 煙の匂いを漂わせながら タバコのように煙たがられたかった やけに気にかけてくる先輩と やさしすぎる上司 ここはぬるま湯であって かといって冷水や熱湯を求めてもいない つまりは水を断りたいのだ 喉の乾くがままにおれは砂漠にいたい 太陽に灼かれたい ブラインド越しにまなざす太陽は おれを挑発する 湿った灰色のブロックを 踏みよけなが

          20240221──smoke shelter

          20240219

          吸いたくもない煙草ばかり吸って 肺が泥濘む 排泄のために起き上がっては 無為へ横臥する 昼間は寝てばかり そのせいで夜は眠れず 深夜に彷徨するのが習慣となった 夜更けの街は静かだ 寝息は壁を通過しない 紫煙は甘いが それで何かが甘やかされるということもなく 雨垂れを眺める コンビニの前にはいつも酒を飲みながら 電話をしている男がいて 彼が話す英語が おれに外の風をもたらしてくれればまだ救いもあろうに 明日は仕事 効かない睡眠薬を飲み込む