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小説になっていない?

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 ネット上で公開されている文章には、プロの書き手さまかと見紛うほどに整って好もしいものもあれば、まだ書き慣れぬと思しきものもございます。

 書いた小説を公開する動機には、「自作を読んで欲しい」という承認欲求が当然あるとして、公募にチャレンジしたものの結果が出なかった作品を公開し、今後につながるような感想を得たいとお思いの方もおいででしょう。
 一方で、プロを目指しているわけじゃない、ただ書いてみたかっただけ、書き上げたので公開してみただけ、という方もおいでかと。
 
 小説講座や合評会での経験として、作品の感想を真実正直に述べる方というのは、なかなかおいでにはならぬもの。
 書き手の気に入らぬ指摘をして、余計な恨みを買いたくはないですし、なかには「指摘して上達されては困る(!)ので、ライバルにはとりあえず、とてもよかったと言っておく」という方も。

 以前、某小説サイトに作品を公開した折、「すばらしい作品」とコメントをいただきうれしく思っていたところ、その方はまったくおなじコメントを各所にしておられました。「お返しに自作にも同様の感想とイイネをよろしく」というPV稼ぎの一端だったようで。
 人のほめ言葉を鵜呑みにしていては、己の真実のレベルには気づけないのかもしれませぬ。

 プロを目指してなどいなければ、どんな作品を公開しようと、どんな感想をもらおうと構わぬわけですが、プロ作家を目指すなら、相互フォロー先からの「よかったです」が「単なるお気遣いコメント」かもしれぬことを疑い、自分がどんなレベルにあるのかを「正確に」知っておくことが必要だと思うのです。

 レベル試しとして、まずは「短編の公募」に挑戦された作家さまのことを以前書きましたが、忖度なしの現実を知るためにはそれが一番の手段と思われます(公募で一次通過できないことを、己のレベルのせいではなく下読みさんのせいだと仰せになる方もおいでですが、それは置いておくとして)。

 新人賞選考に携わっておられた小説講座の亡き講師は、新人賞の応募作の8割が小説になっていないエッセイもどきの作品だと仰せでした。
 この「小説になっていない」文章とは、どういうものを言うのでしょう。

 亡き講師は、「小説は紙芝居のようなもの」とたとえつつ、「見ず知らずの通りすがりの人に足を止めてもらい、話を聞いてもらえるように書きましょう。面白くなければ紙芝居の前から人は去っていってしまうから」と仰せでした。
 小説とは、他人がこしらえた作り話(虚構・ホラ話)であって。
 それを赤の他人に差し出すからには、読みやすく、面白くなければならず、それができているのが小説、ということになりましょうか。

 ちなみにエッセイとは、事実をもとに、それに対する自身の感想や思いや考察を綴るもの。日記もどきの、ある日の出来事を綴り、面白かった、腹が立ったという感想を述べただけでは「小説になっていない」、と。

 そも、小説にもさまざまな形があり、どれが正解というのはもちろんないわけで、自分にとってこれが小説と信じるならそれでよいとも思いつつ、公募に挑戦するからには選考委員にダメ出しされないものを書きたいわけで。
 小説の書き方指南本には、それぞれに参考となる記述がございます。

 『懸賞小説神髄』(齋藤とみたか:洋泉社)は、下読み経験豊富な著者だけあって、「下読みを戸惑わせる作品」の例示も多彩です。

・会話がだらだらと続く
 →セリフを書き込みすぎて、対話のシーンが無駄に長くなっている
  
 知人と会ったとき、「おはよう」「おはよう、今日はいい天気ね」「でも朝は冷え込んだわね」「ほんと。もう毛布を出しちゃったわよ、私」なんて日常会話から入るのが普通ですが、これをそのまま小説に書いてしまうのはNG。
 物語に必要ない会話(描写や説明も同様)は無駄でしかなく、読者を退屈させるだけ。さらに言えば、「~が言った」などと、誰が話者かをいちいち書くのも読んでいてうるさいだけで、話者が誰かは「セリフだけでわかるように」書くべきだ、と小説講座で教えられました。
 同様に、たとえば主人公が家を出る場面で、履き物に迷ったり傘を持っていくべきか迷う描写をしたり、「今日は降水確率何パーセントだったっけ」などと独り言を言わせたりするのも、物語の進行に必要でないのなら削るべき、と。無駄は極力削り、書き込むべきところに厚くが原則。

・だってこれ、事実なんです
 →嘘くさい話を読まされては、読者は物語から興味を失う

 あまりに都合よすぎる展開がくり返される、そりゃないだろと思わずツッコんでしまう、などの指摘に対して「でも事実ですから」と返す書き手さまがおいでになるとのことですけれど。
 たとえ事実起き得た出来事でも、嘘っぽいと思われるならそれは「書き手の力不足」ということ。そも、小説自体が虚構ではありますが、あたかも真実であるように描きリアリティを持たせねば「小説とは言えない」ということで。

 ちなみに事実をそのまま(報道された出来事など)書いてはならぬ、と小説講座の亡き講師は仰せでした。そこに関わる方々が現実に生きておられるため、名誉棄損やプライバシー侵害といった問題も出てくる(プロ作家の方が実際に起きた出来事を扱うときには細心の注意を払っておられる)と。

(★都合よすぎる展開といえば、私の大好きな吉川英治氏の『鳴門秘帖』という名作がございます。読書感想の過去記事を再掲しましたので、よろしければそちらでご確認くださいませ)

・流行語は賞味期限を過ぎると……
 
→小説に流行語を取り入れるのはデメリットのほうが大きい

 公募新人賞を受賞して作品が出版されるまでには、執筆時間から数えると数年かかることも。執筆当時は時代を感じさせていた流行語も、一年も経てば古くなり、忘れ去られていたりするもので。
 それを逆手にとったハイレベルな作品もあるものの、たいていは書き手がカッコいいと思って書いた言葉も、読者に届くころには古くさくなっており、ゆえに流行語を作中に使うのはデメリットが大きいと。

 これと同様に、テレビの番組名を実名で登場させたり、比喩に俳優の名前を使うなどということも、「どうしても作品にそれがなければ、という要請に基づかないならば」避けたほうが無難(安易な言葉選びをしているととられかねないので)、とされる作家さまもおいでです。
 
 実在の地名をそのまま登場させないという作家さまもいらして、それはその地を事件現場とすることでお住まいの方へご迷惑とならぬようにとの配慮だったり、読み手に地名から余計な情報を与えたくないという意図があったりもするようです。

・次々と現れ、次々と死ぬ登場人物たち
 →印象が薄い登場人物が多数出てきては読み手を混乱させる
 →死亡フラグなしでいきなり死なれると読み手は衝撃を受ける

 前述の会話のところで触れましたように、セリフでの登場人物の書き分けを考えるだけでも、アイデアを出すにかなりしんどかったりいたします。
 物語に必須でない人物を登場させるのはそもそもが無駄であり、人物の書き分けができぬうちは、むやみに数を増やさないのが無難ということで。
 
 某作家さまは「ミステリーを書くなら三人殺せ」と仰せになり、江戸川乱歩賞の傾向と対策として「連続殺人、さまざまな土地に事件を分散させる」という項目もあったと申します。
 亡き講師は、「登場人物それぞれに人生があります。盛り上げるためだけ、都合が悪くなったからといって、安易に殺してはなりません」と仰せでございました。
(ある人物の「死亡フラグなしでの唐突な死」で衝撃を受けたドラマがございますが、その後の展開のために必須な出来事として描かれており、強く印象づけられたことがとても効果的に感じました)

・リアリティがない
 →新人だから仕方ない、ではなくて

 新人賞の応募作で「警視庁と警察庁が混同されている」という指摘をよく見かけます(ちなみに警視庁は東京都の、警察庁は国家公安委員会の管理に属する警察に関する中央機関とのこと)。
 実在しているものを描くには下調べをしたうえで正確に書くべきで、とくに歴史物の場合は、選考委員の作家さまがその時代に詳しい場合、作中に登場するモノや言葉の端々まで指摘されることがあるようです。
 新人だから仕方ない、出版時に校閲さんがチェックしてくれるからあまり気にせずに、と仰せになる方もおいでですが、人によっては「こんなミスをするなどけしからん」と作品への評価が厳しくなることも。

 以上、指南本『懸賞小説神髄』の内容に自身の経験なども交えて書いてまいりましたが、貴志祐介氏の『エンタテインメントの作り方』(KADOKAWA)では、「公募で一次選考を通過できないのは、基本的な”てにをは”など、文章力を根本的に学び直すことをはじめ、かなりの改善の余地が残されている」とし、逆にいえば「日本語が正しく使えていて」「小説として最低限の体裁を保っていれば」一次選考を通過する可能性は相当高まる、と書かれております。

 好みの問題ではありますが、個人的に小説っぽくないなと感じてしまう表現に「キャーッ」という悲鳴のような、安易なオノマトペの使用がありまして。
 単行本で出版され文庫化もされたある歴史小説には、バリバリバリッ、ドーン! という雷の音の表記が何度も何度も登場し、古代日本を舞台にした物語のなかに登場する、それらカタカナの字面を見るたびに、「がらがらどん(絵本)か?」とつぶやきが洩れ、興が削がれてしまっておりました。雷鳴が轟いたとか、耳をつんざく轟音とかじゃダメやったん? と。
 あと「キャーッ」についても、陳腐ではありますがそれでも「絹を裂くような悲鳴」とか、鋭い悲鳴とか叫び声がとか、違う表現は選択できなかったのかなぁと思ってしまうのです。
 また、「この書き手の方はこれまで本(小説以外も含む)をあまり読んでこられなかったのでは」と感じることがあるのも、誤字や誤用の多さ、表現する語彙の選択に疑問を持つゆえで、それらは読書量の不足による「持てる語彙の少なさ」が原因ではないかと想像したり。
 せっかくいい題材やキャラクターなのに表現がもったいないなぁと感じるお作品もあったりして──あくまで個人の好みとしてですけれど。
  

 十年前、初めて書いたファンタジー小説に「ペラペラにうすっぺらい、小説にもなっていない」という指摘を受けてから、書いた一行ごとに、これは本当に必要な一行かな、と気にするようになり、あらためて指南本を読み返すなどしてまいりました。
 どんな小説をよしとするかは、人それぞれではありますけれど。
 自身が理想とする小説にすこしでも近づけるよう、まだまだ学んでいかねばと思うのでした。

・・・・・

 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 小説の書き方指南本、読み返すたびに気づくことが本当に多いのです。
 独力でがんばっておられつつ、ご自身の書くものに課題を感じておられる方には「参考になる一冊」がかならずあるはず。
 ご興味を持たれた方には絶賛おすすめいたします。

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