日記111 安部公房『第四間氷期』

 久しぶりに読み返した。これは、予言機械を開発し、それによる実験を行っている主人公が、委員会にストップをかけられ続けている状況を打開するために、実在の人間の未来を予言しようとしたところ、目星をつけたターゲットが殺害され、その後堕胎児取引を含む陰謀に巻きこまれてゆくSF小説である。
 構成としてはかなりわかりやすいドラマ仕立てであり、50年代後半の安部公房作品に典型的な語り口である。登場人物たちの会話はやたらに観念的かつ論理を捻るので、一見ピンとこない点もあると思われるが、それを除けば比較的素直にストーリーは展開する。その意味では読みやすい方だと思われる。
 さて本作では予言機械の扱いが始終問題とされるが、実際のところ、重要なのは未来と現在の関係性であって、未来を予言する機械自体にはそれほど意味はない。それはあくまで、未来との関係を小説で書くための手段である。焦点は、未来とは現在にとって何であるか、それはどういう関係をもつか、という点にある。
 本作の対立は、未来は現在の日常の延長上にあると考える主人公と、助手の頼木をはじめとする、現在は未来によって裁かれるとする人々との間にある。ネタバレになるが、本作で書かれる主人公の巻きこまれた陰謀は、その未来を知る人々による、主人公の審判なのである。結局、頼木らは現在とは断絶しているかのような未来を主人公は受容できないとの判決をくだすのだが、それを受けた主人公の反駁は印象的だ。

「…君たちは…未来の魚人間たちが、はたして思惑どおりに、心から諸君に感謝してくれるものかどうか……むしろ、死ぬほどのうらみを受けることになるんじゃないのかな……」

(『第四間氷期』新潮文庫、p.320)

 僕は安部公房の小説を読んでいて、話がまともに通じていない、論理上の観念のみのやり取りがあるように感じることがしばしばある。それは本作でも同じである。それに対する疑問は、まさにこの引用部が当てはまる。つまり、論理的(本作では未来の正確な予言)結論は、レールに乗って進むこの物事が行き着く場所で、そこに至ることこそが前提なのである。だから、その結論が腹落ちしていない読者や安部作品の主人公は、まるで話の通じない怖さを感じることとなる。本作の最終盤では、本来陸に寄りつかないはずの水棲人が陸に向かい、その環境に耐えられず死ぬ場面が予言される。それに対する頼木らの反応はない。これは書けなかったのではないかと思う。そのような存在は本来イレギュラーで、論理的に導かれた未来予測の個別的な反例となり得る。わざわざこの脇道を安部が書き記した意図は整理できていない。だが、論理的に組み上げられた結論の絶対性を揺るがすという意図は、否定しがたいのではないかと思っている。

(2024.1.11)

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