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子どもの振る舞いを教師に、無感情を克服する

1歳児に学んだ話。
すごい当たり前な話なんだけどなかなか私には理解できないことがあった。それが今朝、息子のおかげで急に腑に落ちた。
私はいつ頃からか「楽しい」を感じない人間になった。いや、楽しいだけじゃなくほとんどの感情が薄くなっていた。20年くらいの間、それを良しとして生きていたらついに「無」になった。
今から4年前、感情、情緒豊かな友人たちから「麗華は無感情でサイボーグみたい!」と指摘され、同時期様々なところで「麗華は感情がない」と言われていた。

私は、
「感情ってあったら面倒そうだけど、あった方がいいのか?」

と思い、そういえば中学生まではあったんだよなーと遠い記憶を頼りに、〝取り戻す〟ことを試みはじめた。
その方法のひとつが
【ひとつの作業・行動だけをする】

食事は、「私は今、食べている、食べている」
散歩は、「私は今、歩いている、歩いている」
音楽は、「私は今、聞いている、聞いている」
のように、
それだけをする、ということ。

これ、やってみたものの、感覚的にわからなかったし、やりながら「気持ち悪い!」が先行し、続かなかった。

さて今朝。
息子(1歳8カ月)と遊んでいてハタと気付く。
彼は口から身が飛び出しそうなほど、全力で笑うし全身全霊で遊ぶ。とにかく楽しそう。わき目もふらず、100%その遊びに集中してる。

かたや私は動作としては息子と遊んでいるものの、頭の中は「〇時に出かけるにはもう準備しないと」「仕事のメール返信しなきゃ」「洗濯しなきゃ」「息子のこの動き面白いから動画撮りたい」などなど別のことでわんさか。

この違いか。
息子の在り方を見て、過去に試して出来なかったソレがいきなり腑に落ちる。なんだ、こーゆーことだったのね。

例えば仕事だって、あれこれ複数を同時進行より一点集中の方が濃厚かつ確実に仕上がるじゃんね。

人間、体は一個、脳みそ一個、なんだから、脳内円グラフは1人1個しか持てない。100%ひとつのことか、色々混在させるかで感じ方、変わるよな。こう捉えればわかることなのに、どうも感情や感覚って形に表せない類いのものとなると途端に理解しづらいものだ。あれこれマルチタスクを〝こなせ〟ても、「一つ一つの感覚を濃厚に」はできっこない。

大人になればなるほど、知識や情報が増え、それらが頭の中を占拠し、脳内がせわしなくなる。〝非効率なマルチタスク〟状態。

その点、子どもはまだ常識や知識が少ない分、脳内%を割り当てる項目も少なく、1つ1つに集中しやすいんだろう。

例えばこういうこと、日常でやっていないだろつか?

食事しながら携帯見る
トイレしながら携帯見る
SNSに載せようと考えながら遊ぶ
勉強しながら歌詞入りの音楽を聞く
友達とお茶しながらLINEの返事する
身支度しながら仕事の電話する
テレビ見ながらお菓子を食べる
など。

これがひどいと、
食事しながら写真撮って、SNS見ながら投稿もして、LINEの返事しながら仕事のメールチェックもする

みたいな。もはやこれがフツーになってる人も多そうだけど、子どもは決してそんなことない。遊ぶ時は全力で遊ぶ、食べる時は全力で食べる、ソレだけ。それぞれに全集中で、幸せでたまらない感じが見て取れる。

あー、本来こうだったのになぁ
そりゃ今のじゃ、感情も五感も鈍るよな

生きるって本来超シンプル。
複雑にしてるのは自分自身。

私は、
〝楽しい〟が無い人間になったわけでもなく、
感情がなくなったわけでもなく、
目の前のことに一点集中していないだけだった。「楽しむ」に脳内パーセンテージを割いてなかった、単純なことだった。

また、こうも捉えられる。例え、10%でも脳内をその時「楽しむ」に割り当てていれば、「私は今、楽しんでいる」としていいんだってこと。100%じゃないと「楽しいと感じてはいない」との思い込みを外す。その思い込みがある限り、受け取れる感覚を疎外してしまう。

子どもは楽しむ天才。
誰しもがかつては子どもだった。眠らせていたその感覚をまた少しずつ再起させていけばいい。

この件、やっと理解した!笑

息子は偉大なる教師だ。

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「緩和ケア」と「産後ケア」。一見対極な存在と見られがちですが、両方を経験しそれらは近い存在であり、両方の重要性を心から訴えたい。これらの在り方捉え方の啓蒙、それらにお役に立てる活動をすることが私の将来の目標です。頂いたサポートはそのために使わせて頂きます!