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運命を変えるアサイゲルマニウム1(ぼく・中村宜司の場合)

ぼくの運命を変えたアサイゲルマニウム

今回は少しいつもと違った視点からアサイゲルマニウムを見ていきたい。今月連載を終えた『アサイゲルマニウムとは何なのか』をお読みいただくと、恐らく、ぼくという人間がアサイゲルマニウムと関わる中で大きく変化したことを知ることができるのではないかと思う。それは、ぼくのことを幼い頃からよく知る人ほど理解できるだろう。しかし、会社に入る前の学生時代・・・あるいは入社後も2年目までに出会った方々は、変わりっぷりを認識しておられることだろう

帯広畜産大学大学院生の頃のぼく(机きたない)

ぼくが変わったのは、もちろん状況が作り上げた部分もあるだろう。でも、それだけではない何かが間違いなくあるように感じている。例えば、ぼくは物心ついた時には酷いアトピーもちで、目が覚めるとベッドのシーツが血だらけ、おしりや膝の裏面など、常に痒くてかきむしりっているためリンパ液が常に滲出していてベチャベチャしていた。痒いから掻くけれど、皮膚が削がれてしまっているので痛くて仕方ない。それでも痒くて爪を立ててしまう。

幼稚園児の頃、顔がアトピーで紅っぽい
(ただし顔はあまり出なかった)

父親も皮膚が弱かったから遺伝だろうと言われていた。しかし、他の兄弟達、兄や弟はぼくのような皮膚炎は持っていない(ただ弟は鼻炎持ちで多少は性質を受けていたかもしれない)。ぼくだけ特別に受け継いだのだろうか・・・。欲しくないわぁ。今にして思えば、ぼくの出生がアメリカのロス・アンジェルスで、生まれた当時のアメリカで流行っていた素早い離乳食というのが影響したのではないかと感じる。つまり、十分に母乳を与えられず、腸内環境が完成しないうちに本来食べないような離乳食中のタンパク質を与えられたことで、粘膜免疫が異常な状態で成長したのではないだろうか。

生後およそ3ヶ月の頃LAで

子どもの、特に乳児期の摂食内容は単に栄養面だけではなく、免疫という外部の環境から身体を守る組織の成長・成熟においても非常に重要なもので、未熟な免疫が自他を認識していく大切な期間に、身体に何が取り入れられるのかは、その後(一生)の免疫の働きに極めて強く関わる因子だろう。そういう意味では、当時の母親がアメリカの流行に流されてぼくを放置し、楽な離乳食を与えて育てたことは残念だ。結局、ぼくは成人するまで皮膚炎に悩まされ、異常な免疫反応と半生付き合うことになった。そして、血だらけの少年はクラスメイトにそのことで虐められたり、物事に集中することもできないので勉強も嫌いだった。ただし、勉強嫌いはこれだけが理由ではなかったかもしれない(笑)話は脱線するが、半ズボンが決まりだった東京の小学校で(半ズボンが決まりってなんの規則だ??)、半ズボンが湿疹を見えるようにしてしまうために、また大気からの直接的な刺激で痒みが出ないように、ぼくは長ズボンを一人だけ着用していた。これも変わり者のレッテルを貼られる原因だったかもしれない。

幼少期(およそ5歳)

お陰で、今は人と異なることを一般的日本人ほど気にしない。他人は他人、ぼくはぼく。それぞれで良いのだ。みんなが画一的である必要など微塵もない。話を戻そう。アトピーに加えて、さらにぼくの苦難の原因となったのが、小学校高学年の時の家庭科の実習だ。洗剤を使って食器洗いを行う。というものがカリキュラムとしてあった。そして、その実習の夜に異変が起こった。ぼくの手は突然乾燥しだして、ヒビ割れるようになったのだ。このヒビ割れはいわゆるちょっとしたアカギレなどという状態ではなく、手のひらの拇指球皮線(手相的には生命線とよばれる)の端から端までパックリと割れて手を握っていないと開いた時に裂けが広がり、血がにじみ出る。もちろん拇指球皮線以外の各種皮線の所でもヒビ割れ、指紋もなくなり、猛烈な痒みが常にある状態となった。皮膚の弱いぼくが洗剤に皮脂を剥ぎ取られ、そのことで皮下の免疫細胞に異常な信号を与えて炎症を発生し、皮膚バリアと皮膚免疫の異常な状態が生じて、それからは慢性的に20年近くにわたり残存してしまったものと考えている。今だったら、訴訟もんだろう。学校の授業で、ゴム手袋も使わせず、素手で洗剤のスポンジを使うのだから酷い話だ。これ以降、野球のバットを握るのも難しくなった。そんな頃、よく聞いたのはアトピーは大人になると治る。という都市伝説だ。今になれば、大人でもアトピーの人は沢山いる。きっと、この記事をご覧の方の中にも多数いるものと思われる。ぼくはその事に淡い期待を抱きつつ大人になっていった。とにかく集中力のなかったぼくであるが、前述の『アサイゲルマニウムとは何なのか』にも著したが、大学に入り北海道帯広に移り住み、そこで多少は癒やされていったのは、東京のように空気や水が汚染されておらず、異物の抗原が減ったこと、そして親からのストレスがなくなったこと。自由が得られたことによるところが大きいだろう。しかし、それでも大人になれば治ると言われていたほどのアトピーの完治はなかった。ぼくが子供時代の考えていたこととして、とにかく痒いのは通常状態であるため、痒くない状態というのがどういうものか分からなかった。布団のシーツが皮膚に張り付かないで寝られるというのが、どのような安楽なものか想像することができなかった。というものがある。この帯広在住時代(20代前半)このあたりの安楽な感覚は時折得られるようになった。しかし、手のひらのヒビ割れは多少改善したものの、已然として残存していた。

学生の頃に何かの学会の懇親会で(笑)

そして、浅井ゲルマニウム研究所に26歳の時に入社し、アサイゲルマニウムを社員用の福利厚生で少量もらうようになり、それを飲んでいくうちにアトピーからは解放されていった。ただ、実験で器具洗浄をする時や動物実験をするときなど、ゴム手袋を履くと(←手袋履くって北海道弁です)手のひらにアレルギーが起こり、痒みが生じた。そんな時は冷たい水で手洗いした直後にきれいなタオルで水を拭き取り、即座にアサイゲルマニウムを比較的高濃度に含んでいるケア&リッチクリームをべったり塗り込むと痒みが起こらないのだ(笑)これは本当に助かった。このクリームは火傷にも痒みにも素早く対応できる。ぼくが炎症や痛みなどにアサイゲルマニウムが良いと確信したのは、このような実体験からのものだ

何にしても、いつの頃からか、函館に来て何年か経ってアトピーはほとんど消失した。手荒れ、ヒビ割れも、アサイゲルマニウムの含有クリームでケア可能だった。水仕事をすると必ずなったのは辛かったが・・・。そして、研究を退いて、水仕事が家事関係のみになると、完全に手のヒビ割れも改善した。今から5年ほど前から、東京に単身赴任し、2年半のワンルームマンション暮らしを経験した。その時に、ちょっとだけ臀部のアトピーが再燃した。だから、間違いなく東京の環境がぼくのアトピーに関わっている。しかし、アサイゲルマニウムの経口摂取と皮膚塗布により、間違いなく皮膚症状が緩和していることを確信しているのだ。ちなみに手が乾燥して荒れてきた時にクリームを塗布した写真を残しているので、下に載せる。塗布したその日から潤い、翌日以降には荒れが整ってまともな皮膚に近づく。
アトピーの方に関しては浅井一彦博士の著書『ゲルマニウムと私』のP204に田中隆寛博士の臨床例として記述がある。

使用前
使用後

ぼくは振り返って人生を俯瞰してみると、アサイゲルマニウムがぼくの人生を大きく変えたと思う。遊ぶことばかりに夢中で、研究などには大学院の頃でさえ興味を持てなかった。そんな自分が、アトピーも無くなって集中力も付き、もとよりアサイゲルマニウムで赤血球の酸素運搬が豊富になるためか、脳の働きもアップしたのかもしれない。とにかく、アサイゲルマニウムの機能性についての考察力が与えられ、作用メカニズム解明に関する必要な様々を提案したり、後輩研究員とディスカッションしたり、論文作成の指導までするように変えられたのだ。
ぼくはアサイゲルマニウムを初めて口にしたのは26歳の時であった。
もっと、若い時期、10代、幼児期、乳児期・・・いや胎児期に摂取していたらどうなったことだろうと想像する。
小さい時は体重あたりの摂取量がおなじになる分量が少なくて済む。
幼い子どもの未来のために、少量でもアサイゲルマニウムを摂っておくことで人生が大きく変わるのではないかとぼくは思う。

続くいくつかの話で、ぼく以外の人生についても記したい。



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