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運命を変えるアサイゲルマニウム3(魅せられた三名の医師たち)その1

①岡澤美江子医師の運命を変えたアサイゲルマニウム 

岡澤先生は1972年4月14日に浅井一彦先生と出会ったと著書の『天の配慮』の中に記されている。そして、「医師としての人生を貫く上で、生涯の仕事を与えてくださった「アサイ・有機ゲルマニウムの開発者」」として浅井先生を紹介しているのだ。これはまさに、医師岡澤美江子の運命を変えた日の記述に違いない。
また、岡澤先生は『ゲルマニウムと私』の中にも症例報告を掲載されていて、1967年にアサイゲルマニウムが世に出たことを考えれば極めて初期の段階で出会いを果たされたことになる。この当時、社会福祉法人「乳児保護協会付属診療所」にて診療されていた岡澤医師はインフルエンザが流行した時に子どもたちのために必要な酸素箱が不足する悩みが、アサイゲルマニウムにより解消され、酸素箱が不要になったのだと記されている。つまり、それほどインフルエンザによる肺炎に対してアサイゲルマニウムが有用で、酸素供給を途絶えさせないということだ。これは、アサイゲルマニウムがインフルエンザに有効という最初の報告だと思われる。インフルエンザに関しては、後に以前記した記事の通り、作用メカニズムも含めて明らかにされていくことになった。

アサイゲルマニウムのインフルエンザに関する最初の記録

いずれにしても、岡澤美江子医師はアサイゲルマニウムのパイオニアとして、前人未到の原野を切り開いてくださった方である。神奈川の金沢文庫にて開業され、内科・小児科『岡澤クリニック』の院長としてアサイゲルマニウムを駆使して様々な疾病に立ち向かってこられたわけだ。
ぼくがアサイゲルマニウムの販売会社の社長をしていた時代、アサイゲルマニウムが誕生して50周年の節目を迎えた。この時の記念の冊子で岡澤美江子医師の特別インタビュー記事を掲載した。すでに、この時分にはクリニックは閉院し、アサイゲルマニウムの販売拠点の一つとしてビレモよこはまで、過去の患者さんを中心とするご家族などに、医師として接しておられた。
このインタビュー内容については本記事の後半に登場する中村篤史医師の院長ブログで紹介されて、ネット上で読むことができるので、ここには再び記さずリンクのみ掲載する。

この記事が書かれた当時、岡澤先生は99歳であった(2020年当時)ことが記されている。残念ながら、先生は昨年2022年末、102歳で逝去された。
ぼくが先生に最初にお会いしたのは2016年だっただろうか。体調を崩されて金沢文庫の病院に入院中に見舞いに行ったときだった。

岡澤先生は病室で寝ておられたが、ぼくが訪問すると手を握り、「中村さん、あなたに会いたかったの!」と声を大きくして話された。
「私ね。あなたに伝えておかなきゃいけないことがあるの。あなたの研究でアサイゲルマニウムは便の色を変えるというのがあるでしょ?」(ぼく「覚えていただいていてありがとうございます!」)「私はね。重い病気の人にはアサイゲルマニウムをとにかく沢山飲んでもらうの。末期がんのもう幾日もない人に○○カプセル一度に飲んでもらったこともあるのよ。そしたらね、翌日に真っ黒なタールみたいな便が出て、その日は本当に大変な状態だったけど、それからスーッと良くなっていくの。私ね、あれはガンが壊死して便になって出てきたものだと思っているの。アサイゲルマニウムは免疫を元気にして悪いものを退治して出してしまうでしょう。それが一度に出てきたんだと思うの。あなたが研究したウンチの色が変わるのも、同じような事が起きていると思って話してみたかったの!」と力強くぼくの右手を、両の手で握りしめられたのだ。
さらに、「私ね。あなたにこのことを伝えておきたいの。ガンはね。治る病気なのよ。アサイゲルマニウムで沢山の私の患者さんが治ってきたの。でもね。ちょっとやそっとの量じゃだめなのよ。間に合わないの。だから急ぐ時はいっぺんに兎に角沢山飲んでもらうのよ。ガンの治療は今の良いおくすりが出たって言っても、ものすごい金額がかかるでしょ。すぐに百万とか二百万とか。でもね、私はウチにくる患者さんにはアサイゲルマニウムを兎に角しっかり飲むように伝えるの。そうするとね、ガンは50万で治る病気なのよ」・・・つまり、アサイゲルマニウムを50万円分しっかり短期間で摂取するよう指導して、多くの患者さんが寛解に至ったということなのだ。
まるで、遺言のように、ぼくの手を固く握りしめたまま、恐らく3、4回は繰り返し話しされたように思う。あとは、浅井先生との出会いや、様々な病気にどのようにアサイゲルマニウムとともに取り組んでこられたのか。そのことを伝えてくれたのだ。
ぼくは、初めて会った方にこれほど強く思いを語られたことはなかった。正直、非常に驚き戸惑った。ぼくは単なる研究者上がりの販売会社の社長で、社長として就任して間もない(たしか1,2年目)ひよっこである。そんなぼくに、これほどの熱意を持って何かを遺したいというのが切実に手のぬくもりを通して伝わってきた。この時のことは、今も強く印象が残っているし、少なからずぼくの生き方を変えているきっかけになっている。
幸いなことに、遺言で終わらず、岡澤先生はこれ以降回復され、退院したので、前述したアサイゲルマニウム50周年の記念パーティーにもご参加いただくことができ、ぼくの拙い50周年記念講演も聴講してくださった。

その後も、大体は毎年訪問し、先生の娘さんがアサイゲルマニウムの販売拠点としておられる『ビレモよこはま』さんや、先生が後に入居された高齢者ホームに訪問して懇談する機会を得られた。
ホームでのこととして、一つエピソードを記したい。先生は晩年100歳が近づき少々認知機能が衰えた。多少、理解力が落ちてきた中、それでもアサイゲルマニウムだけはいつでも身近に置いており、食欲がなく食事が取れないときもカプセルを口に入れ、それを齧ってたくさん食べておられたという。そのように、ぼくが訪問した時に施設の介護の職員さんが笑顔で話してくれた。また、施設に入っている仲間たちに健康状態を聞いたりしながら、既に診察できるような状況ではないけれど、ゲルマニウムカプセルを処方して差し上げてしまっていた。ということも伺った。
それは本当に、生涯をかけてアサイゲルマニウムに心血注がれた岡澤美江子医師らしい逸話であった。

入居施設を訪問した時に岡澤先生とツーショット

最晩年、本当はお会いして改めて遺言を伺いたかった気持ちであり、中村篤史先生にも会っていただきたかった思いがいっぱいである。岡澤先生は、それこそアサイゲルマニウムの使い方を伝える相手を熱望していた。会えば、50年に亘るアサイゲルマニウム療法のなんたるかを、絶えることなく話し続けられたのではないかと思えてならない。
しかし、現実はコロナ禍という意味不明な人の関係性を破壊するイベントがあったために、いずれも叶わないで先生はこの世界から去られた。
ある意味、ぼくは仲介者として岡澤先生のスピリットを中村篤史先生に伝える役割として、あの時に話を伺ったのだろうか。。。
間違いなく、世界一アサイゲルマニウムの臨床現場において人々に処方されてきたのが岡澤美江子先生だ。そして、今、同じように世界一アサイゲルマニウムを臨床の場で処方されているのが中村篤史医師であり、名実ともに有機ゲルマニウム研究会の立ち上げをされ、健康のための利用法をリードして模索してくださっているのだ。直接会っていなくとも、ぼくは後継者だと感じている。

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