大矢博子さんが「夫婦」をテーマに編んだ名作短編集『朝日文庫時代小説アンソロジー めおと』文庫解説を特別公開!
時代小説の醍醐味は、現代とは異なる文明、異なる社会システム、異なる価値観の中で暮らす人々が描かれているという点にある。
中でも結婚の制度は時代によって大きく変わってきた。たとえば江戸時代をとってみても、結婚のシステムやそこに求められる夫婦像も、民法の内容に至るまで、今とはかなり異なっている。
本書では、そんな異なる社会に生きる「夫婦」に焦点を当てて、6作をセレクトした。武家の夫婦ものと町人の夫婦ものが3作ずつ。新婚から歳月を重ねた老夫婦まで、明るく微笑ましい夫婦から離縁を考えている夫婦まで、幅広く選んだつもりである。
今とは違うからこそ起きる問題や、今とは違うのにどこか身に覚えのある感情、そして時代に関係なく泣いたり笑ったり愛しんだりする人の営みを、手練れの作家の筆でたっぷりと味わっていただきたい。あらためて、夫婦とは何かを考えさせてくれる作品ばかりだ。読み終わったときには、パートナーの存在をより愛おしく感じられるのではないかと思うのだが、如何に?
青山文平「乳付」
タイトルの「乳付」とは、初産などでうまく授乳できなかったり乳がでなかったりする母親に代わって、経験のある女性が乳児に乳を含ませることをいう。
望まれて家格の高い番方の家に嫁いだ民恵は、出産後の不調から回復するのに数日を要した。その間、赤ん坊の乳付を縁続きの女性・瀬紀が行ったと聞かされる。瀬紀が若くて美しく、夫とも以前からの知り合いだったことや、自分の乳が出ないことから、民恵は瀬紀に激しく嫉妬するのだが……。
夫も子どもも瀬紀に奪われてしまうかのような思いに身を焦がす民恵が、瀬紀と話し、実父と話し、少しずつ心がほぐれていく様子がいい。特に実父から夫の職場での苦労を聞く場面が印象的。夫にも妻にもそれぞれの場所で苦しみがある。けれど「番の日がいかに堪え難くとも、他の日を笑って過ごせていれば、自裁せねばならなくなるところまで切羽詰まることはないはずだ」という言葉が、その解決策を示してくれるのだ。
朝井まかて「蓬莱」
旗本の四男坊である平九郎は、養子の先もないまま二十六になった。このまま冷飯喰いでいるのかと思っていた矢先、大番の組頭という家柄の高い中山家から婿養子の声がかかる。逆玉の輿に家族は喜ぶが、どうも相手は奔放が過ぎて婿の来手がなかったらしい。
そして迎えた祝言の夜、新妻の波津は平九郎に「三つの願い」を申し出た。身分違いの相手に頭の上がらぬ平九郎はその不可思議な願いを受け入れたのだが……。
実に楽しい一編である。その日にあったことを話した結果、ある罠を巧みに回避するくだりなど、上質なミステリを読んでいるかのようなカタルシスもある。さらに、高飛車な願いの真の意味がわかったときには思わず頬が緩むこと間違いなし。武家の祝言のシステムも興味深い。
それにしても、祝言が決まったからと暇を願い出たお手付きの女中の存在が辛い。ともに逃げようといったロマンスの展開にはならないのだ。これもまた当時のリアルである。
浅田次郎「女敵討」
幕末の混乱の中、なかなか国元に帰れず江戸に2年半滞在している吉岡貞次郎のもとを、国から御目付役の稲川左近が訪れた。なんと国にいる貞次郎の妻が不義密通を働いているというのだ。公になる前に自分の手で女敵討──つまり、妻と浮気相手を討てという。
とにかく急いで帰国することになった貞次郎だが、ひとつ心残りがあった。実は江戸にいる間におすみという女を囲い、子どもまで生まれていたのだ……。
妻が浮気をしたら相手もろとも殺していいという決まりはもちろん、お家のために我が子を差し出すという発想も、現代では受け入れ難いものだ。そういった現代ではあり得ない設定の中で人の心がどう動くかを描けるのが、時代小説の魅力である。
国元に帰ると貞次郎に告げられたときのおすみの心情、浮気現場に踏み込んだときの貞次郎の心情、そして不義を働いた妻の心情など、いずれも現代の私たちの心を強く揺さぶる。社会のルールや価値観は今と違っても、人を思う気持ちに違いはないのだと伝わってくる。
宇江佐真理「夫婦茶碗」
日本橋堀留町の会所に暮らす町役人の又兵衛とおいせは再婚同士。前妻の子達を育て上げたあと、隠居して町役人(町の世話役のようなもの)となったふたりのもとに、ある夫婦の問題が持ち込まれた。職人の夫が酒乱で妻子に手を上げるという。今度そんなことがあったら会所に泊めるから逃げてこいと勧めたのだが……。
ここからの3作は町人夫婦の物語である。
本編には又兵衛のこれまでの妻の話や、DVに悩む妻の話、そして長年連れ添いながらも内縁のままである又兵衛・おいせ夫婦の話と、さまざまな夫婦の形が登場し、辛い結婚を続けるのが幸せなのかどうかを問いかけてくる。ポイントは、又兵衛とおいせがなぜ内縁のままなのかというところ。その理由が明かされたときには膝を打つと同時に、江戸時代の女性の立場がいかに不利なものだったかが窺える。
なお、本編は連作長編『高砂 なくて七癖あって四十八癖』の第一話にあたる。今後ふたりがどうなるか、ぜひ一冊通してお読みいただきたい。
藤沢周平「泣かない女」
夫と死別して戻ってきた親方の娘・お柳と体の関係を持ってしまった錺職人の道蔵。妻のお才と別れてお柳と一緒になれば、親方の後継になれるし、何よりお柳はその美しさで以前から憧れの人だった。それに比べて、妻のお才がみすぼらしく見えて仕方ない。ある夜、お柳にせっつかれたこともあり、道蔵はいよいよお才に別れを切り出した──。
藤沢周平の真骨頂というべき、引き算の文章が素晴らしい。お柳に誘われて舞い上がり、新参者が後継者になりそうと聞いて焦り、お才に嫌気が差す前半はこれでもかとばかりに道蔵の内面が綴られ、道蔵の身勝手さが浮き彫りになる。しかしお才に別れを切り出してからは彼の心情はまったくと言っていいほど描かれないのだ。ただ、彼がそのあとでとった行動だけが綴られる。それゆえに、そのときの彼の思いはどんなものだったのか、何が彼を動かしたのか、読者は自分で想像することになる。その深さと余韻をじっくり味わってほしい。
山本一力「西應寺の桜」
摺り屋の当主・邦太郎は、妻の千乃が病に倒れたため家督を息子に譲って隠居し、看病に専念することにした。現代でいう脳出血を患った千乃のため車椅子を特注し、甲斐甲斐しく世話を焼く。しかし千乃の容体は次第に悪化する。出血の再発もあり、口も利けず、指先を動かすことすらできない。いったい妻に何をしてやれるのか……。
老老介護は現代の大きな問題となっている。本編の邦太郎は金銭的な苦労こそないものの、何をしても反応のない妻に癇癪を起こしそうになり、いや、妻の方が辛いのだと我に返るくだりは、多くの介護経験者の共感を得るのではないだろうか。
結婚はゴールではなくスタートだとよく言われる。であるならば、ゴールはどちらかを看取ることではないだろうか。人はいつまでも健康ではいられない。山もあれば谷もある。けれど山も谷も、手を取り合って進んでいけるなら、これほど幸せなことはない。