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ヤシの実のひとと


なにをどう書いても現わせない。

背は150センチもないし、足のサイズも小学生並みでいつも靴屋でウロウロ探している。

辛いときは笑いながら話してる。

誰も相手にしてくれなければ、ずっとドラマを見ていれれる。

食べながら、ふんふんとお歌をつい口づさむ。

人を悪くいったこともないし、怒ることもない。悲しそうな目をすることはある。

雨ニモマケズに出てきそうだ。ヘラヘラといつも笑ってる。


。。なんてことを、いくら並べてもかのじょを説明できない。

何十年もその軟体な在り方に驚かされて来たのに、お伝えしようとしても表現できない。

なんでだろ?わたしに観察力とやらが欠けてるせいなんだろうか?

いや、申し訳ないことをしてしまった時に限って、こんなふうにあなたを書きたがるからだ。

だって、昨夜はお義母さんがあまりに赤ちゃん返りしたものだから、つい声を荒げてしまったのです。

ごめん。


名も知らぬ 遠き島から流れ着いたひと。

だから、かのじょがまたどこへ行くのかを誰も気にしない。

かのじょも、みなに気にして欲しいわけでもないのです。

ええ、今日はなんてことない話ですほろほろ。



1.30年に渡ったヤシの実の仕事


神奈川にいた頃。

ピザ屋の店長のところにポスティングのチラシ、6000枚を取りに行った。

いつも、月末に行き、かのじょは配布実績を書いた報告書を渡しお金をもらう。

店長は、段ボール箱に入ってるチラシを2箱、かのじょのクルマの荷台に積みこむ。

毎月、これが繰り返されました。


その日、わたしはクルマの助手席に座って待っていた。

店に入ったかのじょが戻って来ない。店長も段ボール箱をクルマに持ってこない。

ふたりはしばらく何か話をしていた。

やがて、箱をもらって家に帰りながら、クビになったわとかのじょが言った。

ピザ・チェーンとしては、各店舗が配布人員をそれぞれ雇っていた。

のだけれど、いろいろ問題があって、今後は本部が業者と一括契約することになったんです、と店長に言われたという。

ということで、店長とかのじょとの間で結ばれていた委託業務は、次月いっぱいで終わりになりました。


何でも始まりというものがあって、30数年ほど前のことでした。

建築会社のチラシをポスティングしていたかのじょは、道でおばさんに声を掛けられた。

ねぇ、あなた、今度息子がピザ屋をはじめるの、チラシ蒔いてくれない?

子どもたちが5歳ぐらい、すごく小さかった頃のことです。

以来、ずっとかのじょは配り続け、月末になるとお金と翌月分の段ボール箱をもらいに行った。

お腹が空いて来る時間帯なら、息子たちのためについでにピザを店で買って来た。


ああ、なんだか残念だわ、という。かのじょは、それしか言わなかった。

30年働いても、派手な慰労会も莫大な退職金も何もない。はい、さようならと。

委託だから、そりゃそうなんだけど、そういうものなんだろうか?



2.ヤシの実と生きる


福岡から関東に連れ去られ、わたしと結婚しました。

かのじょがここに来たかったわけではなかった。

ころころと木から転げ落ち、あれよあれよという間に波にさらわれたヤシの実だった。


美味しいものを食べたいだろう?、旅もしたいだろう?、エステなんかいいんじゃないか?

いいえ、行きたいところはすべて行ったし、今は特に何も無いわ。

じっさい、わたしたちにお金はなかったのだから、そんな質問は意味が無かった。

きみには執着はないのか?死にたくはやっぱりないだろ?

いいえ。わたしは、何かをしたいとか、為したいって無いひとなの。

だいたい、ここはもうじゅうぶん分かったし、わたしはいつ逝ってもいいわ。

ほんとはここに来なくてもよかったのと、始終言った。

かのじょの言う「ここ」とは、荒い、自分の出来ないことばかりの、この世界のことでした。


気が向けば、わたしもポスティングに付き合った。

雨が続く月、カンカン照りの日、チラシが重い2枚折りのとき、かのじょの体調が悪いとき。

そうやって、毎月なんとか、戸建てばかりの街のポストに6000枚を配ったのでした。


最後の数年は、ほぼ毎回わたしも付き合って配った。

わたしたちの生活にポスティングという仕事が完全に組み込まれてきたわけです。

ああ、暑くて嫌だなとか、風が強い日だなとか、ああ、、、寒いっとか、ある。

そういう日々にわたしたちは、手分けして配った。

ただ配るだけ。

だけど、街角の子供たち、おばあさん、ふたりで夕日をあびた丘、雨の中の小走り・・・・

そういうシーンがわたしたちにどっさり沁みて行く。

子どもたちも、わたしたちが配りに行く姿を何度も見て来た。


ヤシの実を見つけたのは、わたしが27歳の時でした。

淡々とし穏やかで聡明なひとだった。そんな実は珍しかったからびっくりした。

ヤシの実は28歳ですと言った。わたしは、一緒になりましょうと言った。

会ってたった3度目だったけど、かのじょは「はい」と言った。

その東の地は、常に人と比べ、人を気にし、人を非難する。

こころ開かない人たちが住むところでした。

自分が生まれ育ったところとどうしてこんなに違うのかしら?なぜなんだろう?と聞いてくる。

いや、土地の人間は、それが当たり前なので聞かれても答えられない。



3.ヤシの実、ここで根を張ろうとする


協業というのが苦手なかのじょは、パートが続きませんでした。

いろいろ非難が来て、やがていずらくなる。ほぼ2年毎に変わりました。

でも、ポスティングは30年も続けれた。

この間、子どもたちは大きく成り成人し家を出た。

穏やかさは変わらないですが、青年だった店長もおじさんになった。

いろんなパート仕事をしてきたかのじょですが、ポスティングだけがずっと続いたのです。


いや、ほんとにおもしろく無い仕事なんです。

日に1時間半から2時間、週に4日ほど配る。

暑い日も寒い日もやただ配る。日に焼けるし、コケて足をけがしたりする。

他人の家の門に入るわけです。なかには「ゴミを入れるな!」と激怒するおじさんもいる。

1枚5円ですから、6000枚配っても3万円にしかなりません。(それでも単価は良い方です)

いくら配っても何も終わりにならない。同じ街を順にグルグル回るばかり。

達成する目標とかは無い。遣り甲斐が、スキルアップが、なんていう話にはならない。

わたしなら、ぜったい選ばない仕事。単調すぎて、耐えきれない。


でも、かのじょは、自分の好きな空き時間に、じぶんのペースで働けるわと言います。

わたし、不器用だし、気が利かないの。

人と一緒の仕事って苦手なの、でも、これはひとりで出来るから嬉しいわ。

そういうかのじょは、月末、そのわずかなお金をもらうととても嬉しそうでした。

かのじょにとって、金額の大小よりも、自分も稼げるという誇らしさがあったでしょう。

1か月、わずか3万円。でも、店長からいただくと、ルンルンしてた。

けっしてわたしに依存しようとはしない。


ヤシの実は、ここに来て子を産みました。

わたしも子どもを持ってみたいの、わたしも人並に役割が欲しいのと言いました。

でも、工程が組めず、作為ということが苦手な実だから、子育ても世渡りもへたでした。

パート、PTA、自治会・・。

人を傷つけることが嫌いで、朗らかであることをなによりも望むひとだから、

この土地の競う空気にはなじむことはありませんでした。

子どもたちも、やはり競い、批判し、何かを為すという東の人種に育って行きました。

ふるさとのアタタラ山の上の空がほんとの空なの、とやっぱりこのヤシの実は思って来たでしょう。



4.ヤシの実、クビになる


そうして来たある日、店長からクビを告げられたのです。(店長の言い方はもっとソフトだったでしょうが)

あと10日ほどでポスティングがすべて終わってしまうという時を覚えています。

仕方ないわぁ、、でも、なんだかこころが寂しいなぁ、みたいなことしかかのじょは言わない。

じゃあどうしようかなと、次を考えてるかのじょはやっぱり淡々としていた。


感傷にひたっているのはわたしでした。

ああ、もうここも来ないんだなと、いちいち感傷にふけりながら街のそこここを配ったのです。

この垣根、人が済まなくなったアパート、春になったら咲く桜の木・・。

わたしは、歩くのも、他人の家に顔を突っ込むのも、何も達成しない仕事も嫌いです。大嫌いなんです。

なのに、わたしのからだにその仕事が染み込んでいた。

来月からは、体を動かすことも、ふたりで力を合わせることももう無いんだ・・。

単なるお手伝いのはずだったわたしの方がへこんだ。


30年も、誰もしたがらないポスティングをせっせとしてきたヤシの実は、いったいしあわせだったのか?

いや、かのじょは働くということの意味合いが、もっと切実でした。


うまく働けないくせに、わたし働く気だけはいつも満々なの。

たいしたお金にもならないけど、やっぱりわたしも誰かのために何かをしたいの。

働いていないと、崖からずるずると落ちてゆく。


ふつうの人なら出来るようなことが、わたしには出来ないということがいっぱいあるの。

目がすごく動いてしまい、読み書きが出来ないし、計算も苦手だわ。ほら、指が足りないっていう感覚、分かるかしら?

一度に1つのことだけに過集中してしまう。気を配れないの。

わたし、必死に崖のぎりぎりのところで踏ん張るの。

でも、働かなくなったなら、もう落ちるままになる。

わたしは、ここ(地上)にいて良い理由を失うの。


人たちが普通に暮らしている土地の、その隅の崖にしか居れないかのじょは、

働かないともう、この世界との関りを無くしてしまうといいます。

崖からずるずると落ちて行ってしまうと。



すべて約束分を配り終えた日。

長きにわたり、ほんとうにご苦労様でしたとわたしはかのじょの労をねぎらいました。

そうだっ、豪華な送別会を開こう!と、ファミレスに行った程度でしたが。

ヤシの実は、流れ着いた先を悔いているんでしょうか?



P.S.


柳田國男、繋がりで。

東京帝国大学2年だった柳田國男は、伊良湖岬の突端で1カ月滞在していた際、海岸に流れ着いた椰子の実を見つけた。

「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した。」

で、柳田國男は、親友だった島崎藤村にその様子を話し伝えた。

藤村はこの話にヒントを得て、椰子の実の漂泊の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂いを重ね、歌曲『椰子の実』の詩を詠んだという。

https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yashinomi.htm


このURLにある古風な歌を聴くと、かなりウルッとします。

ああ、、あなたはそんな心境なんだろうなぁ。

あなたのふるさとは、きっとここではないのです。

いずれの日にか、くにに帰らん。みたいな。


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