つれづれのふたりにほろり
昨日は早朝から病院に。出血激しいお義母さんを連れて。
患者でごった返していた割に、検査室の前はひんやりと静かでした。
ほとんど人はいません。
すこし待っててくださいね。
腰掛けてCT検査を待った。
そこに、ヨロヨロした老夫人と老紳士が寄って来てとなりにぽとりと座った。
夫婦だと思う。供に90歳は超えていた。
いつも見るような風景とは違うのです。
なんだかんだと夫の方が妻に話している。
しかも、よく響く声なのでわたしの耳にも入る。
妻も応答している。
夫は、陽気な声で話す。妻も返事する。
20分ほどそこに居て、ふたたび前方のエレベータに乗って行った。
夫が妻の手を引く。妻がよろよろと前へ。
夫も、よろよろとさらに前へ。
ふたりは手と手を離さない。
微笑みながらふたり、エレベータに消えて行った。
ふたりが手を繋ぎ、支え合いながら行く姿はなんとも素敵です。
お前、だいじょうぶかい?
ええ、ほら、わたしちゃんと歩けるわ。
いやぁ、よろよろしてるじゃないか。
何言ってんの、あなただって。。
ああ、、いろいろあったのだろうし、今もどちらかがたいへんなんでしょう。
でも、その後ろ姿が愛おしい。
男女平等とか、パートナーとかいう言葉がまったく相応しくない時空が張られる。
消えゆくような生の最後に、支え合っているといったら伝わりますか。。
尊厳と労わりと慈しみがふたりをほろほろと包んでいたのです。
ただ出来ることだけを精魂込めてするだけみたいなふたりでした。
ほぉーと息を吐き、すぅーと吸う。
きみがいて、ぼくがいる。
それ以外のまったく不要な虚飾が脱落している。
でも、たしかにふたりいることをその繋いだ手と手が伝えて来る。
瞑想というけれど、それはまだ主体的すぎる。意思がありすぎる。
生きる様自体が瞑想になってた。
ああ、、あんなふうに成れたらいいな。
わたしたちもそうなれるのかな?
焦りや不安に襲われる時って結構あります。
そういう時、いつまでも色褪せないモノに触れるとすっきりします。
いつも心の底にあったことを思い出させてもらうのでしょうか。
そうだ、そうだ、わたしにもこころに居てくれたんじゃないかと。
住んでいるシニア向けマンションは、老人ばかり。
会えばあらあらと女子たちは、声を掛け合う。
でも、あまり近づき過ぎないよう、顔を覚えても、みな名を交換しない。
もちろん、情報交換はする。
あそこの病院が良いとか、ここのコロッケが美味しいとか、あの人はツンとすまして面倒な人だとか。
で、かのじょとわたしが二人でいると、よく声を掛けられる。
まぁ、仲が良いのねとか、いつも買い物いっしょねとか。
ううーん、そんなにラブ、ラブでも無いのだけれど・・。
意外なことに支え合うふたりのシーンというものをマンションでは見かけないのです。
1つには、ほとんど男性が先に逝くので、3:1で圧倒的にオンナの園だから。
そして、元気な内は、人は我が立っている。
特に、オトコは、どういうふうに自分だけが快適に…としか思わない人が多いと思う。
難しい顔をしていて黙ってるし、妻を喜ばせたいなんていう雰囲気は絶無。
好きだったのでしょう。
供に苦労したでしょう。
笑いあったことも、泣いたこともあったでしょう。
それらの記憶がほろほろと崩れ去る時、せめて敬意を払って話し掛けたいです。
それは、モンクだったり、冗談だったり、冷やかしだったりするのですが、せめて、こころ和ませてあげたい。
おそらく先に立ち立つ者として。
あなたは孫娘に似て、とても背筋がすらっとしています。
背は150センチもないのですが。
あなたは、とても、メガネや帽子が似合います。
頭蓋骨の大きなわたしがちっとも似合わないのに。
あなたは、とても綺麗な言葉を使います。
わたしがドアを開けてあげると、他人行儀に「ありがとうございます」という。
あなたは、人を批判も非難もしたことがありません。
わたしが呪いの言葉を吐き易いのに。
お義母さんは、そのまま入院となってしまいました。
ごめんね、ごめんねと繰り返した。
仕方無いですよとわたし。
もう、お迎え来ていいのにと、お義母さん。
いいえ、最後の最後までこれはお勤めですからとわたし。。
早朝からバタバタし、検査と入院手続きまで完了したのは夕方でした。
わたしもかのじょも、かなり疲れました。
部屋に戻り、ふたりっきりに成って、気が付くと静かなのです。
あらためて91歳のお義母さんの面倒をみることのたいへんさを感じました。
あの老夫婦のことが浮かびます。
わたしの胸がすーっと伸びて行ったのです。
労わりあう姿というのだけれど、そうとしか表現できないのだけれど、
他者がありのままを表現している姿に、励まされるんでしょうか。
そっか、力を抜いてさらして良いんだなって安心するのかもしれない。
そこは病院。
きっと、かれらも、わたしたちも問題を抱えている。
にも関わらず、ありのままの姿にわたしの胸がすーっと解放されたのです。
恐れや不安のある”今”は実は問題ではないのかもしれない。
ほかほかと、ほろほろとする時をじぶんで跳ね除けていただけかもしれない。
何も問題なんか無いのだし、
困ったといい、怒ったといい、不安なじぶんがいるだけなのだ。
最後まで、たいせつな人たちにちゃんと笑顔を向け続けられたらいいのにな。
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