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無関係

夜に道の石ころみたいになり 朝起きても疲れがとれず
生活も忙しさもそんななにも変わっていないのにどうしてなのかを
わからないままもりもり食べることでごまかしての日々がつづき
疲れなのかなんなのかそのわからない何かが何か、 今日わかった

セッションの行き帰り、 菅野さんが始められたパレスチナウォークにならい
ひとりプラカードを持って歩くのを始めてから 一瞬の休戦はあっても
停戦へと向かう気配は少しもないまま、 凄惨さ深まるばかりのガザの状況に
仕事にかぎらず、 外にいるあいだはどこへゆくにもプラカード胸に持ち
ライフやカフェへ入るときも、 リュックにしまうこともしなくなり
つねにプラカードとともにいるのがもう普通になっていたのだけれど
なんなのかの疲れの理由は、 それだった

今日は歩かず自転車で外へ出て、 プラカード一度も持たずに過ごしたら
日々にあったあの謎のなにかが 今日はなかった。
更には 自分の消耗に危機を感じて モクセイと猫仙人のお店をはしごして
とことんゆっくり幸福にあったのも きっと大きくはあるけれど
帰り道にはっと気づいた なんで今日はしんどくないのか
その理由は 疲れではなかった

疲れではなく 現実の突きつけによる 硬直だった

プラカードを持って歩き始めたのが、 12月だったから、 たぶんそれから
ひと月は経った その間、 声をかけてくれたかたがふたりいて こくっと
うなずいてくれたひとがひとりいた。 そしてすれちがうほぼすべてのひとは
見ていないか、 無視か、 目をそらすか、 ときどきいやな顔をされるかの、
そのどれかで いやな顔をされる以外は、 なにも感じることも、 なにかを
思うことも、 ずっとなにもないでいたのに 今日カードを持たず、 一日を
過ごしたら なにかを思ったり、 個人的に何かを感じたりはなくても
なにもなかったわけではなかったとわかった

情報に対しふだんはオフにするというのをしなくなり、 フルオープンでいる
ようになって それでさらに電車には乗れなくなったり 商業施設やひとが
複数いる場所は、 近寄れなくなってはいたけど それ以外にはそこまで問題
を感じなかった。 だけど、 自転車をやめて歩くようになってから
すれちがうひとの発する情報は、 読もうとせずとも、 伝わるものあり、
そこで伝わるものというのが
ここずっと寝ても消えない そのなんなのかだった

それは 自分とは関係ないということ
歩く間 それがとうぜんになり でも自分の内は、 硬直していた

すれちがうひとに何も思わなくても 思えば、 それは戦争が始まった頃から
愛や命をテーマにした 特には映画や、 他の表現、 それを表現するひと、
そうして表現される作品に その作品が、 ひとりの命の重みを強く描いてい
ればいるほど いま起きていることとの乖離を感じて いままでのように
屈託なく見ることが、 もうできなくなった

この世界に嘘を感じて 嘘が当然のものとして共有され、 循環する社会
そこに北陸の震災もあいまって

唯一目にするテレビは歯医者さんの待合室で流れる朝のワイドショー番組
震災直後も、 また今日も、 テンションもトーンもまったく変わらず
グルメやファッションの話題を何人ものひとが、 通販番組の司会者と同じに
目を見開いたり、 オーバーリアクションで反応している、 その数秒でも
起きていることとのギャップを、 腹部にくらって えっ、 どういうことと
数秒ではわかりようもない それでものとまどいを ぱぱっと振り払っては
それを忘れ テレビは作られたものなら、 そうして一瞬で振り払えても

目にするものから感じることと いま起きていること そのギャップ
命に対するありかたの 乖離 それは それを直接に体験するのが
歩いているときだった

関係なければ成り立つものを、 守るため
無関心という結託が 現状の維持、 保持を可能にする

変えるより 変わるより 変わらないを選ぶ

そう選択させているもの、 その存在に ひとが見るその価値に
硬直が 起きていたと
プラカードを持たないことで 生まれない反応で それをわかった


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