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土台

意識していなくてもひとは差別をされるとその瞬間にそれをわかる
それなのに自分がひとを差別するときそれには無自覚で そうなるのは、
それはそのひとにとってその視点が当然なもので 特別なものでないから
でも差別される側は それは、 ありえないものなとき
両者のあいだに 弾力ある透明な壁が立ちはだかるのを それを吹き消し
ハグや握手にすっとはいたらないのを そのむずかしさを
延々脈々と採用され続けている、 人間の業にも思う、 その変わらなさを
ネットや映画等の創作物、 人との関わり、 暮らしに社会 対立と戦争の
なくならない世界情勢 目にするあちこちから日々つきつけられる

そうした、 根深いというよりも、 土壌か、 土台化した差別意識を
社会から薄めていつか、 遠い過去のものになし得るときがくるとしたら
それは国でも政策でも、 メディアでも教育でも道徳でも教訓でもなく
それらはもちろん大事であっても それによっての浸透や波及を待つよりも
いま このとき どのときも 個々ひとりひとりが、 自分のものの見方、
ありかたに、 どれだけ自覚的に、 意識的であるか 差別をこの世からなく
すのは そのひとりひとりの、 たゆまぬ注意深さによってなのだと
紀元前にひとが生まれ出たときから変わらないいま いまは思う


わたしはまだどうしても そのひとが維新の議員や積極的な支持者なら
そのひとをでなく 緑色のニョロニョロみたい 一括りにして見てしまう
不祥事の報をSNSで見るたびに そうして出てくるそのひとの顔をわたしは
ひとりのひととして見るのでなく 脳で何か変換が起こり のっぺらぼうの
腐葉土に そこからにょきにょきのびる利権は ジャックと豆の木みたい
そのいただきには 鎮座する菅さんが見えたりもして そうなるともう
頭はファンタジーにとりこまれ 緑のニョロニョロのうごめきに さらに
みゃくみゃくも躍り出て いつでも簡単地獄にさいなまれかねないで

だから気づけばいつからか ならばなるべくに見ない、 考えない方へ
維新や、 維新的なものに対する回避と否認、 それは結果黙認へと向かい
そうして いまをいつでも地獄色に変えてしまう、 自分の維新フィルターを
長くとっぱらえないまま 抱え持ったまま 延々と、 いまのときまで

誰を、 何を支持していても 属していても それイコールそのひとではない
そのひとは そのひとでしかない、 その そのひととして そのひとを

さんづけにも抵抗ある、 橋下氏、吉村氏、松井氏、馬場氏、 もろもろ、
ただそのひととして うっとならずに 見ることできたら
橋下氏が知事になった、 あの地獄の始まりの日から今日まで蓄積された
自分のなかにある 緑色のへどろのようなおもいのかたまり
それを持ち込まず 彼らを見れたら 破壊者というレッテルをはりつけて
彼らを見る自分から、 離れられたとき つもりつもったうごうごのへどろも
ふくめ、 大阪をゴッサムに見てしまう 自分から 未来への定義づけから
わたしは、 未来を見るわたしの目は、 自由になるのかもしれない。

憎しみをもちこまない 恨みからあらない 呪いの思いで行動しない
相手と自分をわけて見ない いまはともにのかねあいでのいまであることを
そうして どういう社会を いまを生きたいか ともに作っていきたいかを

難しいと思うのは 自分の思いがそうしているだけ
自分の思いは自分が決める いつのときも、 どのときも

そのひとを そのひととして見る
それこそが ほんとうの自然で  それがひとの本来の、 土台に思う。


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