見出し画像

言葉の森をさまよう -小説『森のバルコニー』の美しさ


 
【水曜日は文学の日】
 
 
小説というのは、現実の体験から、現実を超えた何かを味合わせてくれるゆえに美しい。そんな風に思っている人は多いと思います。
 
フランスの小説家、ジュリアン・グラックの1958年の小説『森のバルコニー』は、そんな美しさを持つ小説の一つであり、私の偏愛する作品の一つです。




ジュリアン・グラックは1910年、フランスのロワール川近くのロワール県生まれ。ナントで歴史の教師をしながら、小説『アルゴールの城にて』を出版。これが、ブルトンに絶賛され、彼のシュルレアリスムグループに誘われますが、断っています。


ジュリアン・グラック


第二次大戦には兵士として参加。戦後は、シュルレアリスムグループと個別に交流を持ちつつ、マイペースに創作をします。
 
1951年、代表作『シルトの岸辺』が、フランス最大の文学賞、ゴンクール賞を受賞するも、前々から賞に批判的だったため、受賞を拒否。大きな話題になります。
 
その後も、教師を定年退職するまで続け、寡作ですが、晩年まで執筆を行います。2007年、97歳で死去しています。




物語の舞台は、第二次世界大戦が始まった1939年の秋。見習士官のグランジュは、ベルギー近くのフランスアルデンヌ地方、川を背後にした国境線に赴任します。
 

『森のバルコニー』表紙(文遊社)


 
深い森の中にある「監視哨」という、トーチカの上に宿舎が乗った奇妙な軍備施設が、その赴任場所です。しかし、とても敵の攻撃に耐えられるとは思えません(この施設がタイトルの意味です)。
 
戦争が始まったはずなのに、敵軍と睨みあった状態で、襲撃も砲撃もない、奇妙に弛緩した時間が流れます。
 
部下たちは普段通りに食料をとって食事を作り、砦の手入れをして家事をする。農村での暮らしのようなリズムのままです。
 
グランジュもまた、その大地と一体になるかのように、生活に染まっていきます。美しい森を散策し、雨や柔らかい大気を感じます。
 
そして森の中で、妖精のような未亡人モーナと出会って、恋に落ちたりします。
 
しかし、攻撃はなくても、戦争であること、やがて敵が来ること、その情報は間違いなく、日常に重くのしかかってきます。
 
そして「その時」は来ます。




この作品には、グラック自身の体験した第二次大戦の兵役がかなり反映されています。

1939年10月の開戦から、1940年の5月にかけて、フランス軍とドイツ軍はマジノ線を挟んで長いこと睨みあっていました。この無風状態は「奇妙な戦争」と呼ばれています。
 
この状態は、やがてドイツの電撃戦によって破られ、フランス軍は壊滅的な被害を受けて遁走するのですが、グラックもその不思議な時間を体験した兵士の一人でした。
 
おそらく、その経験はグラックの中でかなり大きな衝撃だったように思えます。
 
初期のグラックの作品は『アルゴールの城にて』であれ『陰鬱な美青年』であれ、どこか耽美的で、息詰まるような暗い室内での美に染まっていました(ちょっと倉橋由美子を思わせるものがあります)。しかし、戦後は全く変わってしまいます。
 
グラックの代表作、『シルトの岸辺』でも、中世ヴェネツィアを思わせる架空の国オルセンナを舞台に、戦争状態にあるはずの隣国との国境に出向いた将校の、何も起こらない緊張感と静けさに満ちた体験が、語られていました。






この転換。この小説の要素。それはつまり、単純に言えば、私たちの生の、奇妙なアナロジーであるとも言えるかもしれません。
 
私たちは、無限に生きるわけではない。いつか来るはずの「その時」を、常に待っています。何かの締めきり、卒業、そして、死。
 
私たちは、そうした「終わり」が来ることを知っていて予感しながら、しかし、日常を生きている。それは、どこか奇妙に気怠く、それでいて、終わりがあるからこその、喜びに満ちている。
 
そんな私たちの人生の、普段は忘れがちな側面が、「奇妙な戦争」によって露わになった。そこにグラックは、強い印象を受けたのだと思います。




それゆえに、彼の作品の描写は、煌めくように美しくなる。片方に陰鬱な「終わり」をやがて告げるであろう人の言葉があるからこそ、外界の自然が、人間とは別個の存在として輝いてきます。
 
トーチカから覗く、露に濡れたワラビや、時を停止させるかのように、静かに降り積もる初雪。そして人々が暮らす森。
 
私が好きなのは、土砂降りの雨が降る森の中で、モーナと出会う場面です。足元に気を付けて歩いていると、フードを被ったマントのゴム長を履いて歩いていく女性を前方に認めます。
 
まるでグランジュとの距離を測っているかのように前方を歩く女性。


あいだにかなりの距離はあったが、それでも、二、三度、グランジュは彼女が口笛を吹いているのを聞きとめたように思った。

道は次第に寂しい森の深みへと入り込んでゆく。見るかぎり周囲の森は豪雨のしぶきに沸きかえっていた。

「雨女か」ぬれぼそった襟のかげで思わず微笑を浮かべながらグランジュは思った。「小さな妖精、森の魔女の娘だ」

中島昭和訳


『赤ずきん』も思い出させるような、神話的な光景。そして、彼女と出会い、愛し合うことで、背後に生活があることも知っていく。それゆえに、この日常から軽く離れた光景が、神秘的に見えてくるのでしょう。それは言葉でできた神秘の森です。




グラックの小説は、とにかく比喩が多く、饒舌なはずなのに、静寂さを感じさせます。それは、愛についても同じです。未亡人とのどこか生臭い愛なのに、不思議と神話的な、削ぎ落した感触があります。
 
彼の作品で興味深いのは、1952年の『異国の女性に捧げる散文』です。当時の秘密の恋人との愛を歌った、私家版で60部しか刷られていなかったという極私的な散文詩。


内容もまた、恋人の女性に向け、愛慾に満ちた比喩が熱烈な勢いで重ねられ、それでいて、どこか透明な空気感に満ちています。


想い出してほしい
世に隠れて過ごした甘く美しい日々を
想い出してほしい
僕が安らかに君を愛していることを
想い出してほしい
一日中、一晩中、
僕の胸に君を抱きしめていたことを
想い出してほしい
波間に浮かぶ岩を
想い出してほしい
もし君を失えば、僕は海の危険の中で、
霧笛のように微かに君を呼び続けることを

松本完治訳


それは、やがて来る「終わり」を知った者だからこそ歌える、愛の高ぶりの調べなのでしょう。
 
それは同時に、『森のバルコニー』のそこかしこに微かにこだまする、生の喜びでもある。愛とは、言葉の森の中の、木漏れ日のようなものなのかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

楽しんでいただけましたら、スキ及びフォローをしていただけますと幸いです。大変励みになります。


この記事が参加している募集

私のイチオシ

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?