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熱狂の魔術師 -天才指揮者カルロス・クライバーの魅惑


 
【金曜日は音楽の日】
 

 
指揮者というのは不思議な存在です。自分で楽器を演奏するわけでもないし、歌う訳でもない。
 
実のところ、ある程度実力のあるオーケストラなら、ベートーヴェンやブラームスの交響曲レベルは、指揮者がいなくても、破綻無しに演奏は出来ます。

指揮者の役割とは、その「演奏」に、プラスアルファを付け、真の「音楽」を創りあげることだとも言えます。
 
カルロス・クライバーは、強烈で熱狂的な「プラスアルファ」を創造することができた、最高の指揮者の一人でした。同時に、その踊るような美しい指揮姿でも、多くの人を魅了した、孤高の天才でもありました。


カルロス・クライバー




カルロス・クライバーは、1930年、ドイツ生まれ。父親はオーストリアの名指揮者エーリッヒ・クライバー。

カルロスの名前に隠れがちですが、エーリッヒも素晴らしい指揮者であり、彼が振った、優雅なウィーン情緒溢れる『フィガロの結婚』(デッカ盤)は、私の愛聴盤です。


エーリッヒ・クライバー


 
妻がユダヤ人だったため、ナチスから逃れ、エーリッヒは家族を連れて、アルゼンチンに移住。カルロスも幼少期をそこで過ごします(彼が「カール」ではなく、スペイン風の「カルロス」なのはそのためです)。
 
一旦は工科大学に入るものの、音楽への道を諦めきれずに、劇場で下積みを経て、指揮者デビュー。

当初は高名な親の七光りとみられるのを嫌って、「カール・ケラー」と名乗っていました。デビューの日には、父から電報で「幸運を祈る。老ケラーより」と来たとのこと。
 
やがて、バイロイト音楽祭等で、素晴らしい演奏を繰り広げ、1973年に、ウェーバーのオペラ『魔弾の射手』(グラモフォン盤)で、レコードデビュー。



そして、ベートーヴェンの交響曲第五番『運命』や、第七番(どちらもグラモフォン)で、手垢にまみれたこれらの名曲を鮮烈な解釈で刷新し、今でも決定版と言える名演奏を残しました。
 
その後は数々の名演奏を残すものの、劇場やオーケストラの常任指揮者になることはありませんでした。演奏自体も段々と減っていくことに。2004年、76歳で死去しています。




クライバーの魅力は何といっても、その生気に満ちたリズムと、澄んだ鮮やかな音色。そして、驚くほどのスピード感です。
 
彼の音楽の凄さを知りたい方に、まずお薦めしたいのが、バイエルン国立管弦楽団での、1982年の『ベートーヴェン交響組曲第七番』のライブ(オルフェオ盤)です。



 
『第七番』では、前述のグラモフォン盤もありますが、あちらはスタジオ録音。こちらは名指揮者カール・ベームの追悼コンサートでのライブであり、一回限りの強烈な燃焼となりました。
 
とにかく、第三楽章と第四楽章。信じ難いスピードと、畳みかけるようなそのパワー。黄金色に輝く弦と金管の絡みに、並みのハードロックでは敵わないのでは、と思うレベルの驚異の爆音で、一気呵成にフィナーレまで進みます。
 
演奏が終わると、観客が圧倒されて、一瞬間が出来ています。静かに拍手が始まり、段々と熱狂的な拍手の嵐となるのが、生々しい。
 
ちなみに、同じ曲を来日して振ったコンサートの映像がNHKに残っています。音源は正規録音はなく、海賊版しかないので、ちょっとここでは挙げられないのですが、映像自体は検索したら割とすぐ出てくるはず。



ベーム追悼ライブを超える爆速であり、ところどころオケがついていけない様が凄まじいです。アンコールで足早に出てきて、「こうもり!」と日本語で叫んで振るオペレッタ『こうもり』序曲も素晴らしい。正規音源や映像が欲しい名演奏です。




クライバーの音楽には、単なるパワーだけでなく、しなやかな歌が息づいています。
 
デビュー作『魔弾の射手』だけでなく、華やかなヴェルディ『椿姫』から、絶世の美が流れるワーグナー『トリスタンとイゾルテ』。映像のみですが、爛熟の美しさのリヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』等、オペラでも名演奏を残し、いずれも、それぞれの曲の決定版と言われてきました。




そして、その美しい指揮姿。

彼が指揮する視覚的な姿を手っ取り早く知りたい、という方にお薦めしたいのが、リヒャルト・シュトラウスのオペラ『ばらの騎士』のライブ映像です。
 
二種類あるのですが、最初の1979年ウィーン・フィル演奏(グラモフォン)の方。何度もDVDで再発されているので、今でも容易に手に入ります。


 


その序曲を振る姿が素晴らしい。初めて見た時に私が衝撃的だったのは、
 
人間の腕って、こんなに滑らかに動くのか!?
 
ということ。寄せては引く波のような、その美しい腕の動き。一流のバレリーナのような、まさに音楽と共に舞い、踊る姿。
 
そしてクライマックスでは、風に舞うスカーフのような、やはり人間離れした動きで、ぐるぐると腕を回し、音楽を盛り上げる。

なるほど、こんな姿を見ていたら、オーケストラの団員も燃焼する美しい演奏になるだろう、と納得できます。




そんな彼の名演奏を聞いていると、ふと疑問が浮かんできます。音楽にとって「曲」とは何でしょうか。
 
クライバーが振ると、どれも同じ曲のように思えてきます。『魔弾の射手』の村人が踊る場面や、『椿姫』の舞踏会、『こうもり』のフィナーレ。時代も曲も全く違うのに、ざくざくしたリズムと軽快なスピードと、澄んだ色彩感は全く同じです。
 
調性もメロディも全く違うはずなのに、驚くほどその「質感」と「印象」が似通っているのです。




もしかすると、クライバーにとって、曲とはある種の「うつわ」のようなものなのかもしれません。
 
彼の中に色彩とスピード感豊かな快楽の音楽があって、それを外に出すための道具として「曲」がある。逆に言うと、それが外に出せない「うつわ」は消化不良になってしまう。
 
彼のレパートリーは驚くほど狭いです。ベートーヴェン、ヨハン・シュトラウスに、いくつかのオペラ。

そして、それを広げていくこともしませんでした。生涯にわたって高クオリティなのですが、円熟して変化することなく、最後まで同じ快感の音楽を演奏し続けたとも言えます。






音楽評論家の片山杜秀氏は著書『クラシック大音楽家15講』の中で、そんなクライバーの特性を「デラシネ(根無し草)」と表現しています。
 
南米で育ち、音楽と言えば、名指揮者の父の姿のみ。それゆえ、何かの伝統を継ぐこともない、異様な響きの音楽となる。

1つの場所で自分の音楽を発展させることもなく、偉大な父親へのコンプレックスゆえに、どんどん活動を狭めてしまった、と。




それは正しいのでしょう。同時にそれは、彼の音楽が常人離れした、魔法使いの奏でる音楽であることの証左でもあるとも思います。
 
魔法使いはどこにも属さず、放浪する。そして、その魔法だけは、決して変化することなく、この世の外の世界を垣間見せてくれます。
 
クライバーは、強固な音楽の魔法を持った魔術師であり、魔法の杖によって、私たちに最高の世界を味合わせてくれました。是非一度、その美の世界を堪能していただければと思います。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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