【創作】水霊の碁 第1話 江戸の花飾り
第1話 江戸の花飾り
1-1
「おとぎの町だ!」
弥之吉は声を上げた。このような美しい場所を見るのは生まれて初めてだった。石見の片田舎からこの江戸まで、幾日もかけてここまで来たのだった。
時は元禄12年(1699年)。太平の世の空気が、ようやく江戸の人々の間に根付こうとしていた。
明るい木目や瓦の家屋に、のぼりが立ち並ぶ商家。行き交う人々の色鮮やかな着物と、活気のある会話。こうしたものが、弥之吉を興奮させた。雑踏を歩いているだけで、うきうきと心が弾んでくるのだった。
豆腐屋の脇に、男の子がいるのにふと気付いた。弥之吉のぼろ着と違う、紺絣の着物を着た、白い頬の少年である。一人で所在無げに辺りを見回し、べそをかいている。弥之吉は声をかけた。
「どうしたん?」
「お父とはぐれて、道に迷って。。。」
その時、少年が何かを握りしめられているのを見つけた。それは、黒い石と白い石、そして、白い花飾りが紐で結ばれた、お守りだった。弥之吉は嬉しくなって指さした。
「それ、碁石? 碁打つん?」
「うん」
「我も打つんよ。これから天下の名人がいる本因坊っていうところに行って、弟子にしてもらうんや」
「本因坊。。。我も行く。弟子にしてもらえって、お父が」
「ほんとう? 丁度良かっ! 一緒に行こ! 我は、石田弥之吉」
「・・・神谷長之助」
少年はそう呟いて、弥之吉を上目遣いで見た。白い肌が陽に輝き、一瞬女の子かと思った。きれいだという言葉が弥之吉の頭に浮かんだ。花のようだ。江戸はこんなきれいな場所だから、きれいな子がいるのだと感心していた。
弥之吉は、石見の寒村の農家の生まれである。村の和尚さんから碁を習うと夢中になり、めきめきと力をつけた。十二歳になると、村を超え、その一帯では敵なしとなった。時折やってくる賭け碁打ちも、簡単に負かすようになった。
その一人に、この才能は田舎では惜しい、江戸で碁打ちになるべきだと言う人がいた。その人は、昔、江戸で本因坊という囲碁の名門道場に通った経験があり、推薦状を書いてくれるという。
弥之吉は、碁に熱中していたが、それ以上に江戸という場所に憧れを持っており、一も二もなくその言葉に飛びついた。
弥之吉は五人兄弟の三男であり、家は兄が継ぐ。暮らしは苦しく、頭数が減るのは歓迎だから、両親も反対しなかった。和尚さんの知り合いで、綿商人で江戸と石見を往復している鮫島という男に頼んで、江戸まで連れてきてもらったのである。
弥之吉が長之助を見つめていると、長之助は、おずおずと尋ねた。
「それで、どう行けば?」
「分からん」
「道に迷っているの?」
実際、弥之吉も迷子だった。辺りをきょろきょろ見回し過ぎて、人ごみで鮫島とはぐれてしまったのである。しかし、不安そうな美しい少年の顔を見ていると、大丈夫だという強い気持ちが湧きあがってきた。
弥之吉は生来単純で、無鉄砲で、能天気なくらい前向きな人間である。頭の回転は速く、大抵のことは一人で決めて何とかしてきたし、何とかなってきたという信念がある。
ここでもそれは同じだと思った。こんなに人のいる場所で、こんなきれいで同じ場所を目指している少年と出会った。これは、きっと何かの導きに違いない。悪いことなんて起こるはずがないし、その場所には辿り着ける。何の根拠もない力強い予感が、弥之吉の頭の中に溢れていた。
「人に聞いていけば分かる! 行こう!」
弥之吉はそう言って、長之助の手を取った。長之助が握りしめていた碁石と花飾りのひんやりとした感触が掌に伝わる。
その心地よさに促されるようにして、弥之吉は前のめりに駆け出す。弥之吉の勢いに乗せられて、長之助は笑顔になって、頷く。手を繋いだまま、二人は走り出した。
これが、石田弥之吉と、神谷長之助、即ち後の名人、本因坊道知の出会いであった。
コラム
1-2
道行く人に手あたり次第聞いて、本所相生の本因坊門に辿り着いたのは、お昼を過ぎた頃であった。二人は身の上話をして、すっかり仲良くなっていた。門を叩くと、既に鮫島は来ていた。
「このうつけもんが。どこをほっつき歩いとったんじゃ!」
当然の如く怒られたが、荒っぽい賭け碁師や村の男衆と、この年で張り合っていた経験のある弥之吉は、全く平気だった。
長之助の父親も既にいて、長之助の手を放してしまったことを謝り、弥之吉にも丁寧に礼を言う。やはり江戸のような美しい場所では、人は礼儀正しくなるのだなと、弥之吉はまたもや暢気に感心していた。
と同時に、自分は父母や、周囲の大人からこのように気を遣われたことなどなかったな、と少し心の奥に何かが刺さるような感触を覚えた。そんな風に思ったのは初めてだった。立派な屋敷を案内されながら、必死にその感触を打ち消していた。
本因坊は碁の名門家元である。織田信長公に至芸を評価され「名人」の称号を与えられた本因坊算砂を元祖とする。
幕府には、本因坊、安井、井上、林の四家が、碁の家元として正式に許可されていたが、本因坊家は、時の名人碁所、本因坊道策を当主とし、弟子の質も数も、他家を圧倒していた。
道場も広々としており、畳敷きの上に、碁盤が十以上並んで、内弟子達が打っている様に、弥之吉は度肝を抜かれた。こんな大量の碁盤を見たことが、そもそもなかった。
背の高い、温厚そうな人が弥之吉に挨拶した。弥之吉の入門の可否を見極める、対戦相手である。
「熊谷本碩と申します。よろしく」
「よろしくお願いします」
「推薦状を読ませてもらいました。それではお手並み拝見。六子でよいですよ」
六子、というのは、弥之吉が黒石、本碩が白石を持ち、隅と辺に六つの黒石を置くということである。それだけのハンデを付けられたことは、今までなかった。弥之吉は内心、楽勝だと思って、意気揚々と黒石を握った。
弥之吉の碁は力碁である。ひたすら相手に戦いを仕掛け、そのまま力でねじ伏せる。とはいえ、田舎の自分の碁が通用するかを測る為、序盤は慎重に打った。
左下で白が仕掛けてくる。無理筋だなと思ったが、少し譲ろうと思い、緩めた。だが、その途端、白は更に図々しく、土足で黒地に踏み込んできた。
弥之吉は思わず、かっとなった。馬鹿にされている、と思った。白に石をぶつけ、戦いに乗る。
だがそれは、白の狙い通りだった。黒の攻撃をするすると交わすと、仕掛けたはずの黒の要石を取り、左下一帯は、まるごと白地になった。
弥之吉の顔から血の気が引いた。見るも無残な大失敗である。慌てて左上でその損を取り戻そうとしたが、今度も失敗し、黒石をボロボロに取られた。
弥之吉は観念した。この人は確かに強いのだ。落ち着こう。六子で右辺は広大な黒地。まだ勝てる。
弥之吉は、賭け碁で熱くなって自滅する大人たちを、よく観察していた。多くは、まだ優位な段階なのに、このままだと負けると思って、焦って悪くするのだ。自分はそうはならない。何度か深呼吸すると、ようやく頭の中が落ち着いてきた。
その後、右下でも危うい場面があったが、弥之吉は何とか持ちこたえた。最後まで打ち進め、黒の二目勝ちとなった。薄氷を踏む勝利である。
ほうっと息をついた。相手の本碩は、にこにこと笑って、お見事と弥之吉を褒めた。
いつの間にか横に、顔の白い痩せた人が座って、この碁を観ていた。本碩に話し掛ける。
「粗野な力碁かと思ったら、途中で戦い方を変えたね。あまり見ない冷静さだ」
「ええ、なかなかいい筋ですね」
隣の人は若く、病弱そうで、静かに笑っているが、どこかただ者ではない雰囲気を感じる。この人はかなり強いのではと弥之吉は思った。
弥之吉の予想は当たっていた。彼は、本因坊道策名人の「五弟子」と呼ばれる名手の一人で、本因坊家の跡目、つまり次期当主の佐山策元、今は本因坊策元である。そして、対戦した熊谷本碩もまた「五弟子」の一人であった。
弥之吉はふと思い出して、長之助の姿を探した。辺りを見回すと、柱の横でこちらを見ていた。目が合うと、にっこりと笑って、軽く頷いてくれた。
弥之吉は幸福な気持ちになった。厳しい戦いの重圧が無くなって、その笑顔が身体に沁み込んでくるようだ。
同時に、ここで碁打ちになりたい、という強烈な欲望が湧きあがってきた。
本碩は強い。こんな強い人が世の中にはいる。自分より強い相手と戦うのは、心地よい経験だった。もっと勉強して、強くなりたい。ここに来るまでは、江戸に出ることにただ浮かれていた。今や、この道場に入りたいと心から思うようになっていた。
周りでは、内弟子達が思い思いに打って稽古していた。と、一人の小僧さんが足早に入ってきた。
「お師匠様がお帰りになりました」
その途端、道場の空気が一変した。策元や本碩を含めた全員が背をぴんと伸ばし、姿勢を正す。道場はしんとなった。
やがておつきの人と大声で話し、豪快な笑い声をとばしながら、一人の男が入ってきた。弟子たちが一斉に頭を下げた。
大柄で恰幅よく、金箔の模様がついた派手な袈裟を着た、坊主頭の男。顔には自信が浮かび、全身に覇気が漲る。一目見ただけで分かる、その溢れ出す「力」の空気に、弥之吉は圧倒された。
(この人が、天下の名人。。)
その男は第四代名人。同時代で敵無しの力を誇り、囲碁史上でも屈指の実力者、本因坊家四代目当主、本因坊道策である。
弥之吉と長之助の運命は、大きく動き出そうとしていた。
(続)
※次回 第2話 彗星の光芒
※この文章は、架空の人物・作品・地名・歴史と現実を組み合わせたフィクションです。
【参考文献】
・『日本囲碁大系 第三巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第四巻』(筑摩書房)
・『日本囲碁大系 第五巻』(筑摩書房)
・『元禄三名人打碁集』 福井正明著
(誠文堂新光社)
・『物語り 囲碁英雄伝』田村竜騎兵著
(マイナビ囲碁文庫)
・『坐隠談叢』安藤豊次著
(關西圍碁會 青木嵩山堂)
・『道策全集』藤原七司著(圓角社)
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。
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