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陽光の中の回想 -モーツァルト『ピアノ協奏曲27番』の美しさ

よく、自分の葬式で流してほしい曲、というアンケートがあります。私の場合何かと考えると、ロックやポップ音楽と別に、クラシックの中だと、多分モーツァルトのピアノ協奏曲27番(K595)を選ぶと思います。
 
この曲には、落ち着いた午後、かつての楽しかった過去を思い出しているような、甘美さと静寂があるからです。




 
第1楽章の導入。静かに弦が入り、麗しいメロディが奏でられます。しかし、長調の明るいメロディなのに、弾んだ感じはしません。『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』のあの爽やかさや若さはどこにもありません。

たおやかで、不協和音もないけど、どこか寂し気な音楽。気を抜くと止まってしまいそうな音楽です。
 
そして、ピアノが入ってきても、音楽はさらさらと流れていきます。超絶技巧を見せるのではなく、寂しげなオーケストラの脇をただ流れていく川の水音のようです。


 
そして、第2楽章は、恐ろしく遅い緩徐楽章です。ピアノの溜息のような導入から、まるで今にも止まりそうなオルゴールのように、ぽつん、ぽつんと音のパレットに、最小限の旋律が落ちていきます。
 
まるで、音楽と一緒に、本当に時が止まっているような感覚です。ある種の瞑想のような静けさがあります。陽光に照らされた廃墟のような音楽です。


 
そして、第3楽章は静寂の中から、ほんの少し弾むピアノによって始まります。柔らかな霧は晴れて、子供たちがスキップするような旋律。しかしやはり、無理やり盛り上がったりしません。子供たちと談笑することもなく、遠くで笑い声だけが響いてくるのを聞いているかのようです。
 
ころころと転がるガラス玉のようなピアノと、全てを懐かしむような甘い旋律のオーケストラが交じり合って、フィナーレまで、ただ流れるように進む。


そして、聞き終わると、人生が終わってしまったような寂寞感が、辺り一面に残ります。ただ太陽の光だけが、何も変わらずに全てを照らしていたかのように、明るく、儚い印象が残るのです。




 この曲でお薦めしたい演奏はヴィルヘルム=バックハウスのピアノで、カール=ベームがウィーンフィルを指揮した1967年のデッカ盤です。名盤中の名盤であり、CDでもサブスクでも、簡単に探せます。録音の質も素晴らしいです。
 
バックハウスは、ベートーヴェンの名演奏で知られる、硬質な音の武骨なピアニストです。モーツァルトには向いていないと言われがちですが、決してはしゃぐことなく、音を透明に刻み付けることで、この曲の寂寞感を引き出しています。
 
そして、ベームの振るウィーンフィルの演奏は、鄙びて、甘い音色で、それでいて落ち着き払っているのが素晴らしい。ピアノの澄んだ音と混ざり、時が過ぎ去る、その虹のような美しさが音楽に現れるのです。



  
この曲は長いこと、モーツァルトの晩年の作品といわれていました。1791年の1月に完成したという、モーツァルト直筆の目録があります。この年の12月に、あの『レクイエム』(依頼が来たのが8月末)を未完にしたままこの世を去るのです。
 
そう考えると、まさに、巨匠の晩年の澄み切った境地のように思えます。もう、何も語ることはない、盛り上がる気もない、名人芸を披露して喝采など欲しくない。もう終わりが分かっているのだから、ただ全てが懐かしい。そういう老境の諦念のような思いです。
 
しかし、最近の研究では、実はもっと前の1788年に作曲が始められていたことが分かっています。



実のところ、その時期は、傑作オペラ『ドン・ジョヴァンニ』が失敗に終わり、作品の注文も殆ど無くなり、生活苦で友人に借金を申し込んだりした時期です。逆に言えば、誰かの注文でなく、自分と向き合って、自分のための音楽を創れた時期とも言えます。
 
この作品が書かれたのが、彼の晩年でなくても、この曲に込められた諦念は、本物だと思います。

そもそも、晩年と言っても、モーツァルトが亡くなったのは35歳です。彼の作品の中には、晩年だけでなく、常に昔を振り返っているような寂しさと、人生は儚いという物悲しい想いがあるように思えるのです。


6歳のモーツァルトが
オーストリアの女帝マリア・テレジアの前で
演奏をした際の絵画
彼女の娘の一人が、マリーアントワネット


 
モーツァルトの人生は、「没落」の人生といえます。小さい頃は、天才音楽少年として、ヨーロッパ中の王侯に招かれ、ちやほや称賛を浴びました。成人して故郷を飛び出し、名作を量産するも、なかなか思うような名声は得られない。とうとう、物乞いのように借金を求める手紙を、毎晩書かなければいけなくなった。
 
そんな男の脳裏には、昔の楽しい思い出が、不意に去来したりするでしょう。
 
拍手喝采、甘いお菓子、自分をかわいがってくれた女性たちの笑い声。

転んだ子供の自分を起こしてくれて、「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言った相手の王女は、革命に巻き込まれています。モーツァルトの死の二年後に、彼女は、断頭台の露と消えるでしょう。全ての自分が愛した時間は、失われてしまいました。

しかし、全てが失われたからこそ、本当に美しいものが顕れるのでしょう。何かを思い出すとき、人生以上の美が生まれてくる。きっと、没落するからこそ、人生の美しさが分かるのでしょう。




 たとえ葬式でかからなかったとしても、私が過ごした人生の最後には、この曲のように、全ては本当に美しかったと、それを確かに告げる音楽が流れていてほしい。そんな風に私は思っているのです。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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