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夫婦で紡ぐ音楽 -映画『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』の美しさ


 
 
私たちは普段、映画をフィクションと思って楽しんでいます。しかし、ドキュメンタリーでなくても、あらゆる映画には、記録という側面があります。
 
そんな「記録」としての様々な層が積み重なって、夫婦の「愛」を、音楽という形で創造した美しい映画があります。それが、ジャン・マリ・ストローブとダニエル・ユイレによる映画、『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』です。


『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』




ストローブとユイレは、それぞれ、1933年と1936年フランス生まれ。パリで出会い結婚し、初期ヌーヴェルヴァーグのジャック・リヴェットの作品を手伝ったりします。
 
ストローブがアルジェリア戦争の徴兵忌避のため、1958年に、二人でドイツに亡命。その後、ドイツやイタリア等ヨーロッパを股にかけ、ミニマルかつ厳格な力強さの前衛映画を、夫婦共同監督で創り続けました。『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』は、1968年の長篇二作目です。


左:ダニエル・ユイレ
右:ジャン・マリ・ストローブ




この作品には、通常の劇映画のようなドラマは殆どありません。

メインとなっているのは、アンナ・マグダレーナが、バッハの生涯を語る声のナレーション、そしてそれに呼応して、バッハやその周囲の人がバッハの曲を演奏するシーンです。
 
この演奏シーンが素晴らしい。バッハに扮して鬘を被って演奏するのは、後に、バッハの時代の楽器で演奏する古楽器演奏の巨匠となる、グスタフ・レオンハルト。まだ若い彼がチェンバロを見事な指さばきで披露します。
 
更に、こちらも後の巨匠ニコラウス・アーノンクールも鬘と当時の衣装を着て、レオンハルトとデュオで、チェロを弾いたりしています。後年の厳めしい表情の面影があるのがちょっと嬉しい。

 

左:バッハ(グスタフ・レオンハルト)
右:ケーテン侯(ニコラウス・アーノンクール)


更に、ボブ・ファン・アスペレン、アンナー・ビルスマ、といった古楽演奏好きにはお馴染みの名前も、若い姿で出ており、彼らの演奏が長回しによってとらえられるのは、ファンにはたまらない喜びです。
 
60年代末という時代も絶妙でした。実はこれは亡命前の10年来の企画だったのですが、50年代なら、古楽運動はまだ殆ど出ていませんでした。

この映画以降、70年代にレオンハルトたちの古楽運動は、クラシックファンにも受け入れられるので、丁度その直前の、方法を確立しつつあった時期の演奏が、見事に記録されることとなったのです。


バッハ(グスタフ・レオンハルト)
演奏はともかく、顔はバッハに似てはいない
寧ろスカルラッティに激似な
若い頃のレオンハルト




記録という面では、映画にはもう一つの側面があります。それは、バッハの妻であるアンナ・マグダレーナの言葉です。
 
この映画のナレーションは、基本的にはバッハ息子が執筆し、バッハの生涯について信頼できる資料である『故人略伝』から採られています。それを、アンナ・マグダレーナ役の女性が読み上げます。
 
ここでは、夫婦や家族の間の感情的なやりとりや生活の様子は殆ど語られません。

ただ、バッハがいつどのような曲を書き、どの王様や貴族とやり取りし、どの教会の職を得ようとして努力したのか、その過程だけが語られます。
 
通常の伝記映画は、偉人の人生をドラマにして、その私的な側面にスポットライトをあてます。

しかし、この映画では、曲とそれが創られた過程という公的な記録しかなく、しかも、それが、最もバッハの近くにいて私的な面を見ていたはずの、アンナ・マグダレーナという立場で語られるのです。




それゆえに、この映画からは、不思議な清浄さが漂ってきます。
 
実のところ、バッハは聖人君子などではなく、結構熱心に自分を楽団の役職に売り込んだり、厳しく生徒を教えて、他の教師と対立したりと、トラブルはそれなりに起こしています。

そして、この映画ではその様子も、三つか四つほどレオンハルトによって、演じられます。しかしそれもあくまで公的な行動。
 
この映画でアンナ・マグダレーナは、ナレーション以外に、画面に出てきても、一度もバッハと会話をしません(というか演奏シーンがあっても台詞は発しません)。

ただ、ワンシーンのみ、バッハが書斎で、楽院宛に境遇の改善を要請する手紙を書く時、その傍らに黙って立っています。


 書斎での夫婦


 
これが、この映画のスタンスを表しています。どんな愛憎を繰り広げるドラマよりも、不思議な絆を感じさせるのです。映画批評家の蓮實重彦が、この映画を評して、「ただ同じ画面にいることが、愛の表象になるのだ」とどこかに書いていた気がするのですが、それは至言です。
 
そして、そんな風にただバッハの仕事を読み上げる部分が殆どだからこそ、夫婦間の小鳥のエピソードや、バッハの最期を語る部分が、痛切な響きを持ってくるのです。




私たちは、映画で愛を表現するには、ある種のドラマでしかできないと思い込みがちです。しかし、私たちの人生はドラマに満ちているわけではない。バッハのように職人的に作曲し、自分の人生を芸術作品の基にしない芸術家なら尚更です。
 
そんな人でも、一緒にいてくれる誰かの「愛」の側面があります。それは、究極的には当人にしか分からない、再現不可能で、ドラマにはならないものです。
 
しかし、同時に私たちには様々な公的な姿というものを持っている。それを記録することで、描かれなかった私的な「愛」の姿がうっすらと透けて見えるのではないか。そんなことをこの映画から感じるのです。


アンナ・マグダレーナ
(クリスティアーネ・ラング)




そして、この映画は、バッハ夫婦のある種の「共作」でもあります。
 
バッハの当時の演奏が、アンナ・マグダレーナの言葉によって繋がれ、意味と歴史を与えられ、紡がれていく。

その息せき切ったようなナレーションと、それが終わって間髪入る映像の編集のシャープさは、それ自体が、バッハの音楽をコラージュした、新しい音楽となっています。
 
バッハの陰に隠れていたアンナ・マグダレーナの存在を、ドラマで誇張することなく、ただ一緒に音楽を紡がせて、バッハの音楽を再創造すること。

それこそが、映画にしかできない、架空の「記録」であり、プライベートの再現ではない、二人で生きた証の「愛」の再創造と言えるかもしれません。
 
それが、ストローブとユイレという夫婦によってつくられたのは偶然ではありません。機会がありましたら、この作品をご覧になって、その素晴らしい映像・音楽と、夫婦の「愛」の記録について、思いを巡らすのも、一興かと思っています。
 

バッハが指揮し
アンナ・マグダレーナが歌う場面


 


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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