見出し画像

短編小説 「対価」 前編

完全かつ、確固たる、疑いようのない完璧な二日酔いで目を覚ました。

アパートの布団の上で、目覚ましアラームの乱暴な音で、強制的に眠りの泥沼の底から一気に釣り上げられた。せっかくの休日だというのに、いつも通りに目覚ましが鳴ってしまい目を覚ますのは、この上なく損をした気分になる。

二日酔いの朝ほど不快なものはないといつも思う。だったら飲まなければいいのに、なんて言えるのは、酒を飲めない体質で、酒飲みの気持ちを想像できないアホか、もしくは自制や抑制ができる強い人間だ。ただ、そいつらは自分が強いので、弱い人間の気持ちがわからんのだから、結局はアホだ。

なんてことをウダウダと考えながら、布団で上で寝返りを打つ。寝返りを打つだけで頭に響く。

昨夜はしこたま酔っ払った。と言っても酔っ払いも二日酔いも珍しいことじゃない。いつもの酔いが1〜10のレベルでアベレージが7だとしたら、昨日は9くらい酔っ払った。毎日なんだかんだで酔っ払うが、この頃は休みの前日にはそれくらい飲むのが習慣だ。

どうせ独り身だ。誰が待っているわけでもない。以前のように飲みすぎて小言を言う嫁もいない。嫁は娘を連れて出て行った。慰謝料がっぽりと取って。

二度寝しようかと思ったが、小便がしたかったのと、喉がひどく乾いていたので、起き上がって、ペットボトルの水をがぶがぶと飲みながら、朧げな頭で昨日の夜のことを思い出した。

【あなたの願い事、なんでも叶えます】

白い旗に、達筆な文字でそう書かれていた。新宿のどこかの路地裏だ。酔っぱらいすぎて記憶は曖昧だ。あの辺は知り尽くしているつもりだったが、通ったことのない路地だった。

そこに占い師がいた。小さなランタンのようなランプを小さなテーブルにおいて、その前に坊主頭の、赤い服を着たやけに若い占い師が座り、ふらふらと歩く俺を見ていた。

「何見てんだよ?」

と俺はなんだかその視線が気に食わなくて、思わずからむような口調で言った。

(うさん臭え)

俺は鼻で笑って、その占い師を見る。坊主頭だっがからてっきり男だと思ったが、なんとその占い師は女だった。

やけに顔の綺麗な女で、綺麗すぎて怖いというか、つるりとした爬虫類のような顔に見えて、綺麗だし、美人の部類に入るが、俺には不気味に見えた。しかし、後頭部の形がとても綺麗で、坊主頭は凛としていた。ふとそれを見たせいで、娘の綺麗な頭の形を咄嗟に思い出し、一瞬懐かしくなり、その直後に寂しいような、惨めな気分になった。

「あなたの願いを叶える? へぇ〜」

冷やかすように俺が言うと、

「はい、ここは願い屋です。あなたの願いを叶えます」

女はソプラノ歌手かってくらいの甲高い、よく通る声でそう言った。

「願い屋? なんだそれ? 占いじゃぁぁねえぇんか?」

ロレツが回っていないが、とにかく若い綺麗な坊主頭の女が占い師で、どっから声を出してるのかわからないような声色で、さらに願い屋とかなんとか…、妙に気になってしまった。

「はい。こちらはお客さまの願いを叶えるための、そうですね、注文受付とでもいいましょうか?」

また高い声で話す。雑居ビルとゴミ捨て場。シャッターの閉まった昼間は何をやってるのかわからない店の並ぶ路地裏から、夜空に向かってスコンと抜けるような声だ。

にしても、うさんくせえ。そもそも、俺はこの手の占いとかまるで信じない。別れた妻がそういう怪しいスピリチュアルだかにハマっていたから、余計に抵抗がある。

「なんだなんだ? 手相とか、水晶とか、そういうのじゃねぇのか? それともなにか?この石を買ったら幸せになれますとかだろ?」

妻もそんなのをやってた。霊能者が作った龍の置物を置くと、その家はお金持ちになれるだかなんとか。お金持ちどころか、金も家族も失った。

「ここは占いではありません。何の物販もしておりません」

女は少しだけトーンを落とした、冷静な口調で答える。

「じゃあ願い屋ってなんだよ?」

「よろしければどうぞおかけください」

女は目の前の小さな丸椅子に俺を促した。俺はそんな怪しいものに敵対心すらもっていたが、どうせネットカフェに行って始発まで待つだけで暇だったので、なんとなく座った。なんならこの女のハナを明かしてやろうとすら考えていた。

「いくらだい?まあ、別に知りたいことなんてねえけどな」

俺はそう言ったが、

「先ほどもお伝えしましたが、占いではありません。あなたの願いを叶えるのです」

「願い? だからなんだよそれ? 宗教か? スピリチャルってやるだろ?」

「違います。素粒子物理学を利用した、異次元サービスを提供しています」

ますます怪しい。さすがにベロベロだった俺も少し酔いが覚めた。

「あのなぁ、おねえさん」ひとつ咳払いして、落ち着いて話す。「俺は確かに酔っ払ってるけど、あまりふざけたことを言っちゃいけないぜ? そういうので人を騙してお金をもらおうなんて、将来碌なことにならないよ?」

と、言ってやったがその女はいたって真面目な表情で、微塵にもふざけているようには見えない。そして、酔っ払った中年男が若い女に説教をするというこの図式に、自分自身が居た堪れない気分になった。この女の目で真っ直ぐ見つめられると、なんだかそんな気分になる。

「あなたの叶えたい願いはなんですか?」

俺の説教を無視して、女はそう言った。近くで聞くと、耳にキンキンと響く。

「願い、ね…」

そう言われて、咄嗟に思いついたのは娘だった。しかし、今娘とまた一緒に暮らすことを考えると、まるで現実感がない。そもそも、小学生の娘を引き取って、どうやって育てる?

「はっ!」俺はやさぐれた気分で鼻で笑ってから、「願いなんてねえよ。なんもねぇ。俺はなんもねぇ!」

この女に言ってるわけではないが、声が大きくなった。

「では、特に願い事はない、ということですか?」

女は冷静に言う。

「じゃあな、金かな」

それくらいしか思いつかなかった。次の給料日まで、懐事情はかなり厳しかった。養育費と、売り払ったというのに、マンションのローンがまだ残っているのだ。

「では具体的な金額をおっしゃってください」

「なんだよそれ? おいくらですかって、こっちのセリフだろ? あれ? でも占い…、じゃあねえのか…。ん? じゃあ、一体なんの商売だ?」

「願い屋です。あなたの願いを叶えます。しかし、対価はいただきます。それは金銭ではありません」

「意味わかんねえよ」

腹は立たなかった。なんだか呆れてしまった。そろそろ戻ろうと立ち上がりながら、

「100万…、いや、220万!」

特に意味はない。なんとなくその金額が口から出た。しかし、それは離婚の際の慰謝料の金額だと、すぐに気づいた。

「わかりました。では、220万ですと、そうですね。あなたの大好きな何かを、辞めていただきます」

「は? 220万、くれんのか?」

「ここで支払うわけではありません。ここは受付ですから」

なんだかよくわからんが、この女の空想物語に付き合ってやろうと思った。

「オーケーオーケー!。じゃあ、俺の好きなものをやめる。それで手を打とうじゃないか」

「ありがとうございます」

「で、何をやめるんだ?」

「そうですね、あなたの好きな趣味や習慣など教えていただけますか?」

「趣味って言われてもなぁ」

自分の趣味。酒を飲む。いや、これは趣味か? 昔はオーディオにこだわったり、音楽は好きだな。それ以外に何があるっけ?。

そんなことを考えながら、俺はポケットからタバコを取り出して、一本口に咥えた。

「タバコ」

女がどっから出してるのかわからないような声で言った。

「あれ? 禁煙? わりいわりい。でももう行くから」

そう言って俺は立ち去ろうとしたが、

「いえ、タバコ。その習慣を対価にさせていただきます。よろしいですか?220万円分、相場でございます」

一瞬何を言ってるのかわからなかったが、そもそも最初から何を言ってるのかわからないのだった。

「いいよ。タバコと220万円。いいね。安いもんだ」

俺はめんどくさそうにそう言いながらタバコに火を付けた。

タバコね。こればかりは止める気もないし、一度も禁煙なんてしようとしたこがない。まあ、それも妻との不仲の原因の一つだったんだがな…。

そんなことを思いながら、煙を吐き出し、怪しい占い師だか願い屋だかの女の前から立ち去った。

「近々ご一括で、お支払いさせていただきます」

後ろでそんな声が聞こえたが、俺は返事をしなかった。

**

その記憶を最後に、俺は気がついたら家にいて、スマホの目覚ましアラームで目を覚ました。

それにしても、一体どうやって家に帰ったのだろう? ネットカフェで時間を潰すつもりだったのだが…。

(はぁ…)

また酔った勢いでタクシーを使ったのか? 新宿からだと深夜料金で6500円はかかる。痛い出費をしてしまった。酔っ払って面倒になると、ついついこれをやってしまうことがある。どうしてネットカフェでたった2時間ほど待てなかったのか…。

水を飲んで、トイレへ行き、もう一度布団で昼までゴロゴロする前に、布団の横に脱ぎ捨ててあるスーツのポケットを弄る。タバコを吸いたかった。

(あれ?ないな…)

タバコはなかった。確か、昨夜、3軒目のバーに行く前にコンビニで買ったばかりだったのだが…。

どうやら酔っ払ってどこかで落としたらしい。タクシーに落としたのかもしれない。

俺は少し迷ってから、ふらつく足取りで立ち上がり、その辺に脱ぎ捨ててあるスウェットの上下を着た。そして二日酔いの吐き気を堪えながら、サンダルをつっかけて近所のコンビニへ向かった。とりあえずタバコで一服しないと、目を覚ますことも、二度寝することもできない。

***

「タバコ?」

コンビニの店員は素っとん狂な声でそう言った。

「お客さま、えーと、タ、バ、コ、でございますか?」

この店員は最近入ったドンくさそうな大学生の男だが、何度も俺がタバコを買っているのを知ってるはずだ。

「ああ、タバコだよ。いつもの、そこの90番の棚の…」

そう言いかけて、レジの後ろにタバコが一つもないことに気がついた。自分の吸ってるタバコの銘柄の番号まで覚えていたのに。

「あれ?タバコ、この店で売らなくなっちゃったの?」

俺がそう尋ねると、

「え? はぁ、タバコ…」

そのドンくさそうな男はぶつぶつと言いながら首を傾げる。

その場でぶん殴ってやろうかと思ったが、こいつを殴ってもどうにもならないし。俺が暴行罪になるだけだ。きっと何か事情があってこのコンビニではタバコの販売をやめたのだろう。最近は何かと喫煙者に風当たりが厳しい時代だ。

俺はイライラしながらそのコンビニを出て、駅の方向へ歩いた。ちょっと遠いが、そこでもタバコは売っている。

大あくびをして、頭を掻く。

(なにやってんだか。)

二日酔いでぼんやりしながら、日曜日の朝の商店街を歩く。どうしてわざわざ休みの日の、それも二日酔いの朝に…。

イラッとすると、ますますタバコを吸いたくなる。そこでポケットに手を入れてから、ライターを持ってくることを忘れていたことを思い出し、舌打ちをした。

「はい? タバコ?」

レジでタバコを頼もうとすると、先ほどのどん臭い店員と同じような対応をされた。そして、確かに後ろにタバコの棚がない。

「お客さま、タバコとは? お飲み物ですか?」

年配の男で、ネームプレートに「店長」と書いてある。若者ならタバコを吸わない奴がいてもいいとして、こんなオッサンが何を言っているんだ?

「あのさ、タバコだよ。あっちのコンビニもなかったけど、タバコの販売やめちゃったの? 先週ここで買ったよ?」

俺はそう言うが、

「はあ、先週でございますか…。あの、失礼ですが、タバコとは、商品名でしょうか?」

このおっさん、何をほざいているんだ?

「タバコだよ!」

さすがに怒りが込み上げて声を荒げた。

「申し訳ございません!えーと、どのような商品かお伝えしてただければ…」

店長とおぼしきその男は、俺の大声に驚きながら、頭を下げながらそう言った。

俺はそれ以上何も言わずに、そこを出た。そしてさらに駅前のコンビニ向かう。だが、今度は入る前に気づいた。コンビニの看板には、通常は「酒・タバコ」と書いてあるはずだが、看板には「酒」しかない。そして店に入ってみると、案の定タバコの棚がない。

(どいうことだ?)

街からタバコが消えた? そういえば、駅の反対口に、昔ながらのタバコ屋があったはずだと思い出し、俺は駅を通過し、東口へ行く。

しかし、そんなタバコ屋自体が存在しておらず、コインパーキングになっていた。もちろん、タバコの自販機もなかったし、喫煙スペースの灰皿もなかった。駅前で唯一の喫煙所だったのだが…。

俺は駆け足で家に戻った。二日酔い嫌な汗が全身から噴き出たが、それよりも今自分の身に起きている現状が不気味だった。

家に戻る。とりあえず、灰皿のシケモクでも吸おうと思った。半分くらい吸って消したものもあったはずだ。それから考えよう。

(え? まじかよ? そんな…)

しかしいくら探しても部屋に灰皿がないのだ。離婚してから、マンションを売って、俺は1DKのアパートに引っ越したが、灰皿は3つもあり、ライターはあちこちに無造作に置かれていたはずだ。

しかし、家には灰皿もライターも一つもない。

俺は布団の横に置いてあったスマートフォンを取り出して「タバコ。販売中止」と検索した。しかし、販売中止にはあれこれ検索がかかるが、タバコというものはネット上に引っ掛からなかった。漢字で「煙草」とやっても同様だった。

(タバコが、売っていない、ではなく、タバコというものが、存在していない?)

いやいやいやいやいや!待て待て待て待て!

俺は中学2年生から地元の先輩の家で初めて吸って以来、以来30年タバコと共に生きてきたと言っても過言ではない。俺に会いたかったら喫煙所に行けと、会社内でも有名なほど愛煙家だ。

インターネットでタバコを検索するが、いくら探してもそれらしきものは存在していない。葉巻も、パイポも、キセルも、メジャーリーガーの噛みタバコも、おしゃれな水タバコも、どにもない。人類には煙を吸って吐くという行為があるということが、どこにもないのだ。

昨日の話を思い出す。願い屋とかの女が言った。タバコという習慣を、対価にすると。あの坊主頭の甲高い声の女はそう言った。220万の願いのために…。

(んなアホな…)

そんなことがあってたまるか。おかしい。そうだ!これは夢だ!夢を見ているんだ。現実じゃないんだ!

俺はほっぺをつねったり、耳たぶをひっぱったりして、起きろ〜起きろ〜と念じた。しかし、痛いばかりで、目は冴えるばかりで、二日酔いの気持ち悪さもぶっ飛んでいた。

手に持っていたスマートフォンが突然音を出して震え出して、俺は「うわっ!」と声を出して驚いたが、ただの着信だった。

(従兄弟の、敬太から?)

「もしもし、あっちゃん、久しぶり元気?」

この一時大事になんだよと思いつつも、電話に出る。従兄弟の敬太は、故郷の福岡の親戚だ。俺と年も近く、子供の頃はよく遊んだが、ここ数年は連絡とっていなかった。

「あ、ああ…」

俺はタバコのことが頭から離れず、曖昧な返事をした。今は電話どころではないのだ。

「昌子おばちゃんいるだろ?」敬太は俺に構わず話を進める。「昌子おばちゃん、ずっと施設入っていたけど、昨日亡くなったんだ」

昌子おばちゃんとは、母の姉で、数年前に認知症になりずっと介護施設にいた。昌子おばちゃんは独身で、俺や敬太を我が子のように可愛がってくれたが、俺たちも大人になると、会うこともほとんどなかった。

「そ、そうか…。まあ、高齢だったしな。葬式か?」

「いや、葬式はしないってことになってる。それにあっちゃんも忙しいだろ?」

「しないのか?」

そう聞いて、正直少しホッとした。薄情な話だが、福岡に行って通夜だ告別式だの。そんなものに時間も金もかけたくない。

「で、まだボケてないころの遺言があってさ、葬儀はしないで、うちの親に火葬だけ頼んで、貯金は兄弟と、その子供たち全員で平等に分配するようにって。だから俺やあっちゃんにも昌子おばちゃんの遺産っていうか、そういうのが入るんだわ」

「遺産って…。おばさん何か財産持ってたのか?」

確か、住んでいた家を売って、その金で施設に入れたと聞いたが…。

「うん、1千万くらい貯金あったんだよ。うちの親は知ってたらしい」

「そんなに溜め込んでたんか?」

「な? まあ独り身で、ずっと真面目に働いてきた人だしな。で、分配して、200万ちょっとの金が入ることになったから、先に伝えておく」

「200……」

俺は言葉が出なかった。背中や脇の下から、じわりと汗が噴き出る。

「ほら、あっちゃんも去年は離婚とか色々あったから何かと物入りだろ? まあ、昌子おばちゃんに感謝だな。俺も子供が二人目生まれたばかりだから正直助かるよ。じゃああとでまたメールするから、口座番号とか教えてくれよな。あ、そうそう、福岡来る時は連絡くれよな」

「あ、ああ…」

俺のぼんやりした返事を聞いてか聞かずか、敬太はそれで忙しなく電話を切った。

電話を切ってから、俺はスマートフォンを持ったまま放心する。

こんなことがあっていいのだろうか? 220万円で、俺のタバコの習慣が対価に? いや、俺のタバコの習慣というか、タバコという存在そのものがなくなっているのだ…。

もしも、俺がタバコをやめて、それで220万くれるとしよう。それはつまり、俺の「禁煙」という忍耐への対価になり、それならまだわからなくもない。誰に何のメリットがあるのかわからないが、そういうことなら納得できる。

しかし、今俺の身に起きていることは、そういうことではない。これは禁煙とか、喫煙習慣とか、そういう次元の話ではない。

俺はその後も、半径2キロメートルほどにあるコンビニをしらみつぶしで回ったが、一軒もタバコは売っておらず、もちろん看板に「タバコ」の文字もなく、Googleマップでタバコと検索しても、そのキーワード自体が存在してなかった。タバコに関連するもの、例えばライターや灰皿というものはない。マッチはあるし、チャッカマンはあったが、これはおそらくタバコと関係ないものなのだろう。

とにかく、この世界から、タバコが消えた。コンビニの店員のように、タバコの存在すら知らないのだ。

*****

夜になり、俺は新宿へ行き3丁目の昨夜の路地を探した。昨日の女に会って真相を確かめるしかない。

しかし、どこを探しても願い屋の女どころか、昨日の路地はなかった。酔っ払っていたので記憶はやや曖昧だが、昨日の坊主頭の女がいた辺りの古臭い木造の建物や、シャッターの閉まったビル。薄汚い4、5階建くらいの雑居ビルなどの光景は覚えている。

しかしそんな建物はどこにも見当たらなかった。

(あの場所は、どこだったんだ?)

そもそも俺は酔って記憶をなくすことなどまずない。だから昨日は最後に飲んだバー出て、真っ直ぐに大通りのネットカフェに向かって歩いていたはずだ。

バーのある通りから駅方面に歩けば、すぐに大通りに出る。大通りから、飲み屋の並ぶ通りは、どれも見慣れた通りだ。なぜなら昔から歌舞伎町よりも、3丁目付近で酒を飲むが好きだったので、熟知している。

しかし、昨日の路地はどこにもない。まるで、どこか異世界に迷い込んだのだろうか?

ロクに飯も食ってないので、ここもあで来たのだし酒でも飲もうかと思ったが、さすがにそんな気分になれず、俺は半ば方針状態のままで歩き疲れて家に戻った。ただ、タバコが吸いたかった。

******

あまり眠れなかった。タバコがないことへのストレスなのか、今この途方もないおかしな現実へのストレスなのか、それはわからない。

とにかく翌日会社行く。会社の3階と7階にある喫煙所はもちろんなく、そこは自動販売機が並んでいるだけだった。

車内は喫煙所でよく会う面々に社内で当然会うが、彼らはタバコを吸わないのだろうか?

10時ごろ、俺は大きな声で、

「あー、一服してぇな」

と言ってみる。

部下の山下に聞こえるように。こいつは部署で唯一のスモーカーであり、可愛がってる部下だ。

「そうっすね。課長、今僕もひと段落したんで、休憩室でコーヒーします?」

部下はそう言った。

「コーヒーね、そうだな…はははは」

と、俺は何気なく、指2本を口元に置いて、タバコのジェスチャーをしながらそう言ったが、彼はまったくそれに気づく様子はなく、

「お茶、お淹れるしましょうか?」

別の部下がそう言ってきたので、

「ああ、頼む」

とだけ答えて、その会話は終わった。

俺の知ってる山下は、1時間に一本はタバコを吸う。しかしその日は昼休み以外ずっとオフィスにいた。やはり、山下もタバコは吸わない、いや、タバコというもの、タバコという概念が存在していない。

(なんだんだこれは…)

この不安な気持ちが、余計にタバコを吸いたいと思わせる。とりあえず、頭がオーバーヒートした時はニコチンで気分を落ちつけるのが常だった。

しかし、タバコはもちろん、この気持ちを共有できる仲間すらいない。だからニコチン切れでイライラするかと思っていたが、イライラよりも不安が大きかったし、そして悲しいような、情けないような、なんともやるせない気持ちになった。

つづく


サポートという「応援」。共感したり、感動したり、気づきを得たりした気持ちを、ぜひ応援へ!このサポートで、ケンスケの新たな活動へと繋げてまいります。よろしくお願いします。