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父と息子

「オレがお前に教えられることなんて、麻雀くらいかもな…」

父はふっと鼻で笑いながらそう言ったけど、それは決して自虐的でもなく、なんだか楽しそうな雰囲気だったのを覚えている。

高校生の頃、僕は仲間とよく麻雀をした。

我が家には雀卓も牌も揃っていて、駅から近かったし何かと溜まり場で、暇があると麻雀をしていた。

仲間には中学生からやってる連中もいたけど、僕は高校生になってから覚えた。自分で本を読んで“役”(決め手の組み合わせのこと)を覚えたりしたけど、基本ルール、そして応用編、スジの読み方、符計算など、父からあれこれ教えてもらった。

家に麻雀卓と牌があるというのは、親父の世代だと珍しいことでもないのかわからないけど、僕が幼い頃、よく我が家に大人たちが集まり、夜中まで、下手すりゃ朝方まで父とその仲間たちが麻雀をしていた。

夜中まで「じゃらじゃら」と牌を混ぜる音が騒がしかったが、なんだか楽しそうな雰囲気で、お酒を飲みながらやっていたので、僕はそこに遊びに行って「さきいか」とか「しゃけトバ」とか、そういうおつまみを食べるのが好きだった。

「俺はな、麻雀はそこそこ上手いんだ。でも麻雀は巧さじゃ勝てない」

父は僕に麻雀を教えながら、そんなことを言った。

「やっぱ運?」

「まあ、そうだな。運というか、運を引き寄せる力だ。博才ってやつだ。俺は博才がない。だからパチンコもやらん。でも麻雀はゲームとして好きだ。博才がないから、楽しむだけで、のめり込むことはなかった。博打で身を滅ぼすやつも多いからな」

そんな人生訓に富んだ話もたくさんしてもらったと思う。父は雑学が豊富だったり、若い頃はけっこうやんちゃだったので(周りに聞いたら本当にそうだった)、なかなか面白い話をする人間だった。

博打の才能。博才ってやつはこの世にあるのだろう。でも、それが人生を「幸福」にするとは限らないし、むしろ半端な博才は人を不幸にすると知ったのは、もっと大人になってからだ。

とにかく、何度かそんなふうに高校生の頃に麻雀を教えてもらったことがあったし、僕らが部屋でジャラジャラと麻雀をやってると、ふらりとやってきて、「おい、俺もやらせろ」と、我々の面子に加わったこともあった。そして案の定強かった。だから逆に負けてくれたりしてる様子だった。

冒頭に書いたこのセリフ。

「オレがお前に教えられることなんて、麻雀くらいかもな…」

麻雀牌を並べながら、親父はぼそっと呟いた。

僕に向けて言ったわけではないと思う。でも、僕はこの時のことが、やけに印象的だった。父の声、言葉。麻雀牌を慣れた手つきで捌く、そんな仕草もはっきりと覚えている。

その時は、悪い感情ではないけど、なんだかうまく言えない不思議な気持ちに包まれたし、その意味もよくわからなかった。実際、父から色々と教えてはもらっていたからだ。

でも自分に息子ができて、親になり、十数年ひとりの人間の成長を見守ってきて、親父の気持ちがなんとなくわかった気がした。

☆☆

息子は高校生で、去年から「格闘ゲーム」にハマっていて、専用のコントローラーを買って打ち込んでいる。ゲームセンターにあるような専門的なコンローラーで、ノートパソコンくらいの面積がある。

ある時、コントローラーを改造するということで、Amazonでボタン部分を取り寄せ、自分でコントローラーを分解し、ボタンを付け替えるとのこと。

しかし、ドライバーやら、ペンチがうまく使えないと本体を開いたり、中の細かい部品を外したり付け替えたりできない。

「ドライバーが回らないんだよね。ちょっとどうすればいいか教えてほしい」

とのこと。一応ドライバーの使い方くらいは知ってるけど(前に教えたことがある)、うまくできないらしい。

それをネジやドライバーのせいにしそうになっていたが、「どれどれ」と僕がやってみるとするりと回る。力の入れる方向や加減が大事なのだ。

というわけで、コツを教えながら、一緒にやることになった。

ドライバーも、ネジの種類で変えながら、外したネジは置き場を決めて、ラジオペンチを使って、細かい部品を外していく。

息子は素直に僕の言うことを聞きながら、工具を扱い、コントローラーを分解し、部品を付け替えていく。

普段は口うるさくするほど言うことなんて聞かないのに、興味のあることだと真面目に聞くもんだなと思いつつ、ふと親父のことを思い出す。そして同時に、

(ああ、オレがこいつに教えられることなんて、こんなことくらいなんだな)

と思った。

かつて、息子が興味のないことを、こちらの偏った意図でたくさん押し付けてきた時期があった。

だから幼い息子を抑圧し、コントロールしようとして、その結果として不登校しかり、さまざまなしっぺ返しを喰らったわけだが(まだこれからも来るかもしれない)、今回はこうして息子自身が必要性と興味を感じて、オレに「教えて」と言って話を聞いてる。

人は自分から興味がないことは話なんて聞かない。僕も心のことやら体のことやら、いわゆる「講師業」をしているのでよくわかる。「教えてください」という人間の熱意がないと、教えたものは入っていかない。

だから「子育て」って難しいのはそこで、子供が興味のないことを、親が期待してもダメなのだ。子供のよっては、親の期待に応えようと奮戦する子もいるけど、それはそれで逆に悲劇だ。なぜなら自分を抑圧し、自分を見失って生きることになって、その子自身が後々になって苦労するし、親との関係性は、その頃になって悪化することが目に見えているからだ。

だったら早い段階で、子供との関係を、押し付けるのではなく、むしろ子供が興味を持つことを邪魔せず、そして向こうから聞いてくるまで待つしかない。

特に今の時代は、デジタルネイティブ世代と呼ばれるだけあって、子供たちは勝手にどんどん新しいツールや情報を扱い、頭の鈍い大人よりもどんどん受け入れていくし、自分で情報を集める。

ますます、今の子供のたちにものを教える機会が減っていく。

しかし、今回は「工具を扱う」という、かなり「アナログ」作業であり、直接の体験がないとわかりずらいものなので、こうして教えることができたわけだが、親が子供にこうして直接教えれることなんてたかが知れてるなと思い知ると共に、あの日の親父の気持ちが、なんとなくわかったような、わからないような…。

ただ、寂しいとか、そういう気持ちはない。「そんなもんだよな」と、笑ってしまうような、なんとも潔い感覚に近いかもしれない。

子は親を離れる。子供も高校生くらいになれば、まさしく教えることなんて無くなってくる。そんな中で、僕は父から麻雀を、そして僕は息子に工具の使い方を教えれたというのは、なんだか感慨深いものではないか。

でも、僕は父から直接、たとえば麻雀とか、他にも歴史の話とか、人と人の生き方のようなものをたくさん教えてもらったけど、多分そうじゃない部分。つまり、「教える」とか「教えられる」というコミュニケーション以外の部分で、僕が勝手に“教えられたこと”の方が多いのだ。

親父の背中、なんて言うと時代錯誤しているけど、本当にそうだなと思う。人は言動よりも、物言わぬ立ち振る舞いだったり、後ろ姿だったり、その人の人となり、そして「生き様」が滲み出ていて、それを見た人が、勝手にあれこれ学ぶのだ。

だから僕自身も、息子はもちろん、出会う人に恥じない生き方をしなければ、などと思うのである。


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大塚あやこさんはいわゆる「スピリチュアル畑」ではありません。心理学の先生です。しかし、とても内面に霊性を持って活動をなさっています。ぜひ聞いてみてください。

5月26日 Awakening(目醒め)

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歩く、稲荷山 5月22日


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