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目醒めよ、日本人! 「人生はいつも生放送の本番」


(3日間無料記事です)

2021年も、11月に入りました。
世界は目まぐるしく動いています。日本のメディアを見ているとまったく入ってこないけど、すでにインフレなどが始まっている国もあるし、民主主義国家が北朝鮮のような国家の強制により規制が当たり前になりつつあり、それに反発をしている人たち…。

世界はどうなるか?我々はどう生きるべきか?そして、日本人として、我々はどう生きるのか?

今回も「目醒めよ日本人シリーズ」です。(後半にリンクあります)

最初に、今日の伝えたいオチを伝えます。

あなたの人生は入試テストではなく、すでに本番中だ!

ってことです。それでは、少し長いですが、お付き合いください。

さて、この世界は三次元の星、地球です。

心の世界や、精神世界やらスピリチュアルやら、何やらこの世界にはそういう目に見えない力もあるのは確かだけれど、我々は実際のところ、物質世界をベースに、何か行動することによって、この現実を動かしています。

あなたが行動をする前に、まずは何らかの「欲求」が起こり、そしてそれを得るための具体的な「計画」を考え、それを達成するための「労力」を考え、そして何より「成果」をイメージするはずです。

単純に「美味いラーメンが食べたい」という欲求があり、それを得るために具体的な計画を立てる。家からの距離、今日の行動パターン、とんこつか、あっさりか、金額など。そして「一風堂へ行こう(仮)」と決める。一風堂のラーメンを食べたら得られるであろう満足感をイメージし、労力などと合点がいけば行動に移す。

買い物もそうだし、仕事を選ぶ時や、何か学びの教材を買うとかも同じです。自分の欲求に対して、それを解決するためのもっとも得をする回答を探す。

我々はそのように、常に「設問」があり、そこに「正解」を求めます。子供の頃から刷り込まれた価値観かもしれません。見事な学校教育の世界と言えるでしょう。

以前、こんな動画を作ったけど、

教育は我々に「従順な労働者」にあるために組まれたものともいえるのです。自分でものを考えず、与えられた「正解」で満足し、納得するように、幼い頃から植え付けられています。

しかし、これはある意味「本能」レベルだと思う。なぜか?どうして常に正解を求めるのか?

その根底には、

「間違いを犯したくない」
「失敗したくない」
「損をしたくない」
「得(だけ)をしたい」

という動機があります。

当然です。人間ですからね。不快を遠ざけ、快だけを味わいたいものです。僕だって痛いのや苦しいのは嫌です。楽しくて気持ちいいを味わいたいです。

しかし、人生においては、なかなかそう簡単に「正解」というものを導き出せません。上記のラーメンくらいなら大したことないかもしれませんが、人生における重大な局面や選択ほど、正解も不正解もわからないものです。

しかし、それが人生なのでは?

なぜなら「正解 or 不正解」があるという世界観は、人間社会では「テスト」の領域です。

テストとは何か?それは「選別」するためです。

あなたもこれまでにたくさんのテストを受けてきたでしょう。学校のテスト。入試。車の免許。入社試験。バイトの面接やオーディションだって立派なテストです。

もちろん、タレントオーディションのように、数字的な点数よりももっと違う視点があるのでしょうけど(判断する人によってそれはかなり変わるから面白い)、例えば大学入試のテストとか、運転免許の試験とか。

「うーん、テスト間違いだらけだけど、君の文字にはなにか光るものがある!合格!」

という感じで、全然勉強できない偏差値低い人が国立大学には入れないし、

「あちこちに車はぶつけたけどその熱意が素晴らしい!合格!」

なんて運転免許とかあげていたら社会は機能しないでしょう(笑)。だから、テストによる選別は必要な時には必要です。

しかし、最初に言った通り、人生ってテストではないのです。

テストや選別ってなんのためにあるのか?運転免許は、免許を取って公道を運転するためですし、入社試験なら、会社に入って労働に従事するため、オーディションなら、そこからタレントやら役者の仕事をやるためです。

本番の前に、テストがあります。つまり正解や不正解がある段階は、テスト期間なんです。

しかし、繰り返しますが、あなたの人生そのものは、テストではないです。

そもそも我々はテスト期間を経て、この地球に生まれてきたのです。選別されてやってきたのです。

ということは、今この世界で、あなたが体験しているあなたの人生は「本番」だってことです。テストでもリハーサルでもありません。

間違いも、正解も、よくわかりません。ただ、すでにカメラは回っています。あなたは、人生という名の舞台の上にいます。セリフを間違えようと、次の行動を忘れようと、コケようと、カメラの向こうや、舞台の外のお客からは、「主人公がセリフを間違えて慌てているという“演技”」なのです。

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