ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に…

ルイジ

私の心の風景をここに綴ってみたいと思います。私の心にある平安が、あなたの心にある平安に触れ、それを呼び覚ます助けとなるかもしれません。あなたの心の中には安らぎと幸せに満ちた場所があります。 ご意見ご質問などあれば、お気軽にご連絡下さい。aroijio3752@icloud.com

最近の記事

心の深くに広がる満たされた虚空

私たちの心の深くに、満たされた虚空と呼べる静寂の地平が広がっています。その無限で永遠なる不滅の地平は、存在の根底に変わることなく在り続けているものです。 この世界のすべては肉体を含めて、変化し移ろいゆくものであり、永遠で不滅のものはありません。 もし、私たちが肉体と自己を同一化しているならば、自分自身を限定された有限なものだと感じることになります。 肉体を含むこの世界との自己同一化を手放していくならば、そこに普遍なる真の自己が現れてきます。 それらを手放すための一つの

    • たえざる喜びに留まることは可能でしょうか

      生まれることもなく、死ぬこともなく、それらを超えてまったく変わらず在り続けているもの、それが真の自己です。すべての人はそれでありながらも、そうであることを知らずに生きています。 自分は肉体であり、常に変化するものであり、儚く死すべき運命にあるものとして体験されています。 本来の自己を見失い、迷子となり、孤立と孤独を運命付けられていると感じています。今まで真の自己でなかった時は一度もなく、いつもそれで在り続けているのですが、それを見失っているがために、それと違った現実を生き

      • 二つの成功のどちらを選択しますか。

        私たちは誰しも成功することを望みます。 自我にとっての成功とは、獲得したり支配したりすることです。自我が望む自分の外側にある何かを獲得できた時に、それを成功と感じます。また、他者を自分が望むようにコントロールできた時も成功と感じるのです。 一方、聖霊と同一化している真の自己は、充足感、平穏、平安と愛の喜びに目を向けています。その心は外にあるものの獲得には関心がなく、自分の内側にあるものが興味の対象となっています。 自我にとって獲得すべきものは外側にありますが、真の自己は

        • 真の自己を知ることに困難さを感じるのはなぜですか。

          真の自己を知ることに大きな困難を感じるのは、知性の枠内に入らないものをその枠内で捉えようとしているからではないでしょうか。 真の自己とは知られるものではなく、個としての自己が手放されたところにある主観的な認識なのです。 その経験そのものを言葉にすることはできません。言葉で伝えることができないのです。 それについて色々な言葉で説明することはできるかもしれませんが、それそのものを言葉で伝えることはできないのです。 真の自己を探し求める何者かは自我であるに違いありません。な

        心の深くに広がる満たされた虚空

          すべての人の前に開かれている主観的な目覚めの可能性

          悟りや目覚めという言葉で表現されている状態があります。 もし、その言葉が魅力的に感じられるならば、それを得たいと思うかもしれません。 今それを持っていないと感じるので、それが与えられることを願うかもしれません。 しかしそれは得ることも与えられることもできないものなのです。それはただ常にそうで在るものであり、対象として捉えることができないものです。 太陽や空気はただそこに在るものであり、それを個人のものとして手に入れることができないように、悟りや目覚めという言葉で表現さ

          すべての人の前に開かれている主観的な目覚めの可能性

          与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係

          当たり前のことですが、持っていないものを与えることはできません。持ってはいるものの、持っていないと信じているものもまた与えることはできないのです。 人は自分が持っているものだけを与えることができます。見方を変えれば、もし私たちが真に何かを与えるならば、私たちはそれを持っていることを自分に証しすることになるのです。 与えるものが与えられる。この原則が正当であるのは、自分に与えられるものは自分が持っていなかった何かではなく、すでに持っていたものだからなのです。 優しさを差し

          与えるものが与えられるという原則に基づいた兄弟のと関係

          この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか

          この世界の救いは私にかかっている、救いは私から始まる、私が救われると世界は救われる、私は世界を救うことができる、私はこの世界の救い主の一人である・・・ これらは私と世界の救いとの関係を表現する言葉です。 これらの言葉に違和感を感じるでしょうか。これらの言葉が傲慢に聞こえるでしょうか。バカバカしくてあり得ない虚な言葉でしょうか。真剣にとらえるに値しない言葉でしょうか。 イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。世界の救いは私にかかっていると知っていたか

          この世界の救いは私にかかっているとはどういうことですか

          兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるために

          兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるためには、その人に対して無防備にならなければなりません。自己防衛の心は、喜びに制限を課すことになるからです。 無防備になるためには、その人の無垢性を見る必要があるのですが、無垢性は今にしか存在できないのです。 もし、私たちがその人の過去を見ているとすれば、そこに無垢性はありません。 過去にあるのは、その人の罪と誤ちと偏見に彩られた幻想だからです。 兄弟の無垢性と出会えるのは今しかありません。この、今という時間の中で初めて

          兄弟との関係を心から楽しむことができるようになるために

          わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である

          イエスは聖書の中で、イエスと私たちの関係をぶどうの木とその枝に喩えます。 「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である」 枝は木から離れては存在できません。枝の本質は、木の本質とまったく同じであり、どこからが枝でどこからが木であるかと定義することもできません。枝を含めた全体が一つの木なのです。 枝の外見はそれぞれ異なった特徴があり、独自のユニークさがありますが、本質はまったく同じです。 すべての枝は、ぶどうの木そのものであり、ぶどうの木の本質をすべて持っています。

          わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である

          無防備でいられないのはなぜですか

          もし、誰かに対して無防備でいられないとすれば、私はその人のことを危険な人物だとみなしているに違いありません。 私たちが赤んぼうに対して無防備でいられるのは、その子は私を傷つける危険なものではないと感じているからです。 私を傷つける危険人物の前では、当然自己防衛してしまうことになります。 別の言い方をすれば、自己防衛の態度が「あなたは罪深い危険人物に違いない」とその人に向かって宣言していることになるのです。 自己防衛をすればするほど、その信念は強められていきます。 も

          無防備でいられないのはなぜですか

          争いがない世界を見ることは可能ですか

          もし、罪悪感を感じていなければ、誰かを攻撃することはありません。 もし、誰かを攻撃したい衝動を感じるとすれば、その背後に必ず罪悪感が存在します。 罪悪感がなければ、攻撃したいと思うことができないのです。 攻撃したいと思えなければ、攻撃を正当化することもなくなり、争いは意味を失ってしまいます。 もし、罪悪感がなければ、個人においても、会社や組織においても、国家間においても争いは不可能になるのです。 争いが不可能な世界を想像できるでしょうか。 もし、想像できないとすれ

          争いがない世界を見ることは可能ですか

          同一性はどこにありますか

          忘れられてはいますが、私たちの中に、一度も失われたことのない往古からの平安が存在します。罪が決して触れたことのない神聖さの感覚が在るのです。 それは思い出されることを待ちながら、変わることなく今ここにあります。 名付けることも把握することも捉えることもできないもので、コントロールを手放してしまい任せてしまった時に初めて見えてくるものです。 誰のことも裁くことがなく、優劣の判断や価値判断をすることもなく、兄弟をありのままに自分と同じものとして見られる場がそこに開かれている

          同一性はどこにありますか

          心が抽象性に留まるとき

          私がもし営業の仕事をしているとすれば、具体的な成果を求められることは当たり前です。そして私自身も具体性な成果を追い求めるのです。 何らかの具体的な数値目標があり、それを達成することを目指します。 そのために具体的に何をするかを考え、行動するのです。そして、それを上手くやれる人が評価されることになります。それが上手くいったかいかなかったかで、一喜一憂します。 この方向の思考は営業だけでなく、日常生活のさまざまな場面に現れます。 この思考は苦しみをもたらしますが、その苦し

          心が抽象性に留まるとき

          心は抽象性に留まることができますか

          私たちの心に、この世界が提供する価値を信じる思いがあるならば、無意識にそれを求めてしまいます。 それを得るために何をすればいいのだろう、どこに行けばいいのだろう、誰にどのように働きかければいいのだろう、などと考えるのです。 今までの経験から、たとえそれを得ることができたとしても、それは一時的なもので、永続する喜びを伴っていないことは知っています。 しかし、具体的なそれを得ることは価値のあることに思えるのです。 また、それを得ようとする思いの中に、今それが得られていない

          心は抽象性に留まることができますか

          人間であることを疑いますか

          意識的に人間であることを選択している人がいるでしょうか。人間であることに疑いを持っている人がいますか。もしそんな人がいるとすれば、その人は精神を病んでいると言われます。 私たちは疑いなく自分は人間だと信じているので、それを意識的に選択することはないのです。 疑いなく確信していることに選択はありません。 あなたは自分のことを無垢なる神の子だと信じていますか。 おそらくそこには疑いがあり、無条件に確信していないのではないでしょうか。自分の本質が神の愛そのものであり、安らぎ

          人間であることを疑いますか

          つながることができますか

          つながることができますか。その人とつながることができるでしょうか。 つながりたくない人がいますか。どうしてもつながることを拒否してしまう人がいるでしょうか。 あらゆる人とつながることは可能でしょうか。 私の心があらゆる人とつながることを許すことができるでしょうか。 もし、決してつながりたくない人が一人でもいるとすれば、私の心はそれを許すことはできません。 孤独とはつながらない選択です。憎しみ、恨み、妬み、裁き、それらはすべてつながることを拒否する選択なのです。 つ

          つながることができますか