デジタルアートの姿 高尾俊介個展「Tiny Sketches」

クリエイティブコーダー高尾俊介さんの個展「Tiny Sketches」を観てきた。高尾さんが、取り組んできたDaily Codingの成果として、これまでのProcessing(プログラムの開発環境)でスケッチされた作品を一堂に会した個展だ。Daily Codingを行うクリエイティブコーダー、アーティストの作品たちも、個展なのに併せて展示されているというコミュニティを大切にする高尾さんらしい個展だ。

この個展の大きな特徴は、プログラムで描かれたデジタルデータをプリントアウトして、展示している点である。彼の新しいNTF作品やTwitterに投稿されたDaily Codingの作品が、ディスプレイで併せて展示されているが、それ以外の彼の作品は、デジタルデータをあえてプリントアウトし展示している。展示作品を咀嚼しながら、このことは何か象徴的だなと、感じられた。

この感想を起点として、いくつか考えてみたい。

Daily Codingは、様々な制作方法があるだろうが、例えば、高尾さんの場合は、ProcessingというJavaScriptをベースにした開発環境のWEB版ps5.jsでコーディングし、TwitterなどSNSで発表されている。デジタル上で制作され、そして、公開も鑑賞もデジタル上で行われている。強いて言うなれば、デジタルアートである。また、Daily Codingは、他のSNSで発表される作品のように、D2C(Developer to Consumer)的な配信で、より直接的に作り手から受け手へ配信されるている。そこには、ギャラリーや出版社は介在していない。デジタルデータとして、より新鮮な形で、「アトリエ」から鑑賞者に届けられている。

少々大げさに書いているが、デジタルデータによるアート(もしくはデザイン)というのは、こういった醍醐味を持っている。つまり、作者の「アトリエ」で生み出せれたものが、鑑賞者の手元でそのまま再生される。鑑賞者の再生環境(PCやスマフォ)によっては、その再生された姿は、作者の手元とは違う可能性は大いにあるが、その再生される瞬間までは、「同一のコード(データ)」であり、変質性や劣化性を持たない。また、この再生は、1:1で行われることではなく、1:Nで行われる。多くの鑑賞者が、作者が送り出す作品を、同時に(もしくは非同期に)共有できる。これは、これまでのアート作品とは、決定的に異なる形態である。同一性を持っているが、同時に複製性を持っている。

この展覧会への様々な感想がTwitterなどのSNSに寄せられているが、多く見受けられる感想が、プリントアウトされたスケッチたちの存在感である。画面で見るスケッチとは違う見え方、感じ方がするという声だ。これは、リアルな展示会の良さであり、紙に印刷された物のリアルな存在感を改めて物語っている。

しかし、この展示はデジタルアートの展示である。展示されている作品たちは、デジタルコードとして世に生み出され、元々は、物質的な形を持たなかった物たちが、物質的な形態を持たされたデジタルコードの姿かもしれない。デジタルコードつまりビットとして、存在していた彼らが、「展示会」という分岐点でアトム(原子、物理的存在)に姿を変えられ、存在し始めた。そして、彼らは「一点もの」としての宿命を承け、「複製物」ではなくなる。同じコードによる作品が印刷された紙と同じ作品を表示するディスプレイを並べたとしても、それは似ても似つかぬ別物が隣り合っているのである。

デュシャンやウォホールが取り組んだ作品の「複製」はあるが、その作品は、複製されたとはいえシリアルナンバーが振られた「一点物の作品」である。複製物としての多くの兄弟を持ち、数限られた複製された枚数のうちの一点であるというところに、美術作品としての価値を持つ。この考え方で行けば、物理的な作品は無尽蔵に複製された一つである限りは、その価値は低いと言える。その作品が複製された物だとしても、複製物としては無く、意図された複製された、限定して複製された作品の内の一点であれば、それは「一点物」になる。これは、否定的ではなく。

では、デジタルアート作品が物理性を持ったとき、どんな変化があるのだろうか。それは、「再生」を必要としてない作品としての存在を得たことであろう。デジタルアート作品は、その性の故、電気を用いた再生が必要とされる。何かしらの外部的なエネルギーを必要とし、そのかたちを機械的に、電子的に、再構築し再生する必要がある。ここに、大きなビットとアトムの違いがある。アトムとしての作品は、「再生」を必要としない。

もうひとつ、物質性について話すと、デジタルアートが果たして物質性を持つと、「再生」されず1:1としての存在のみになるのだろうかという疑問が生まれる。例えば、プロッタの動作を制御するコードがデジタルアートだとすれば、そのデジタルアートは、ある条件下で、何回も繰り返し、記録されたグラフィックを描き、「再生」され、自ら幾多の複製を生成する場合は、どうなるのだろうか。物理メディアに、その姿を持つが、「一点物」としての貴重性は無く、それは、「複製」された存在である。アトムとしての姿を持ったからとして、デジタルアートが複製されない唯一性を持つとは限らない。

紙に印刷するというのも、デジタルアートの出力形式の一つであり、それがデジタルアートとしての特徴を失うなどということはないという考え方もあるだろうから、上で論じたことは、些か印象の域を出ないのかもしれない。しかしながら、デジタルアートが目新しい表現方法でなくなり、多くの作品が生み出され、その作品の永続性や唯一性を問われる時に、やはり、ビットとアトムの関係について、我々は再び問い直すことになる。

この個展は、上の問題を図らずも、印刷されたデジタルアートを通して、自分に問いかけてきたのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?