見出し画像

叫びの丘

僕は幼い頃に両親を亡くし、父方の祖母と二人、鎌倉にある実家で暮らしていた。父方の祖父が生前に残してくれた財産のおかげで、僕は私立大学まで卒業することができた。しかし、全てが順調にいったわけではない。僕も人並みに、浪人というものを経験している。

叫びの丘に出会ったのは、浪人中、僕が精神的に参っているときであった。周囲の友人たちの成績が伸びていく中、僕の模試の結果は振るわなかった。
「あんた、外で散歩してきな」
僕が自室でうなり、これ見よがしに食事を摂らない様子を見て、たまらず祖母は言ったのだった。
「外なんて行ってられないよ。勉強があるんだ」
「そんな状態で勉強したってなにも得られんだろう。ほら、ばあちゃんもついていったる。イチョウが綺麗な神社があるんだよ」
祖母はさっさと上着を羽織ると、玄関から外に出た。
「ほら、コートでもなんでも持っておいで」

季節は秋と冬の境目であった。寒波は着実に、この鎌倉にも押し寄せている。僕の住む家は、長い一本の坂道の途中に建っていた。道の両側には家が立ち並び、祖母の若かった頃は商店街として賑わっていたと聞かされたことがある。

坂道を下れば、駅やスーパーなどがあり、ここよりも栄えた町に行きつくことができる。祖母は坂を下る様子はなく、曲がってきている腰を一生懸命に動かし、坂を上っていった。僕もそれに続く。自宅から50mほど進むと、商店街の名残である駄菓子屋が見え、100mほど進むと古めかしい本屋に辿り着くことができる。僕はこの本屋を境にした、坂の上側には滅多に行くことはない。本以外の必要な物は、坂を下った町に全て揃っているからだ。

「ばあちゃん、こんなとこに神社なんてあんの?」
自宅から500mほどは離れただろう。坂は自宅の前よりは急ではないが、緩やかに続いている。何度か道を折れ、自宅の姿はもうどこにもない。
「ああ、あるよ。3分の2は来たね。もうすぐさ」
祖母は途中にあった、ブランコとシーソーだけが設置された公園に入り、ふっと息を整えると、僕が水道で水を飲み終えるのも待たず、再び歩き出した。

上ってみて分かったのだが、坂の頂上には、こじんまりとした丘が2つ、さらに乗っかっていた。その2つの丘の間には100mほどの距離があった。
「あれだよ。鳥居が見えるだろう」
祖母はここから近くない方の丘を指さして言った。確かに、赤い鳥居が丘の上に小さく見える。その隣には、鳥居の大きさを凌駕する、黄色いイチョウの大木が見えた。
「へえ、また凄いとこに建ってるんだ――」

「ぅうぁ、ぁぁ」
低い呻き声のようなものが聞こえたのは、その時だった。今いる場所から近い、草木に覆われた小高い丘の中から聞こえてくる。
「え、こわ」
僕は反射的にそう口にした。
「前からこうなんだよ、ここは」
祖母がそう言う間にも、また呻き声とも叫び声ともつかぬ低音が響いてくる。おそらく男性のものだ。
「きっと丘の上に家でもあって、住んでいるんだろうよ。本人にもいろんな事情があるんだろうさ」
「頭がイカれちまってるんじゃないか」
僕の発言に祖母が鋭い視線を向けた。
「こら、そういうことを言うもんじゃないよ」
僕は丘の方に目を向けながら、おそるおそるその横を抜けていったのだった。

神社のある丘の階段を上っていくと、目に眩しいほどのイチョウの黄色が目に入った。僕は純粋にそれが綺麗だと思った。浪人中の不安が、少しだけ和らいだ気がした。
「どうだい、綺麗だろう。結構歩いて、気分転換にもなったんじゃないかい」
僕は祖母の言葉に頷いた。先ほど、横をすり抜けてきた丘が、ここからはよく見える。頂上は木々に覆われ、その内部をうかがい知ることはできない。必要以上に敏感になっている自分を感じながら、賽銭箱に硬貨を投げ入れた。それからまたしばらくイチョウを眺め、自宅へと戻った。

僕の浪人生活は、幸いにして1年で終わりを告げた。高校時代からカメラを趣味としていた僕が、大学の写真部に興味を持つのは、自然なことだった。体験入部に行くと、そこにはカメラを持つ者も、持たない者もいた。持たない者は、単に友人作りの名目で来ているのであろう。そのうちの1人に、麻理という女子がいた。
「大砲みたいなカメラだね」
大きな望遠レンズをつけた僕のカメラに向かって、そう言った麻理の言葉が、僕たちの会話の始まりであった。

麻理は沖縄の出身だった。小麦色の肌に、少しだけ太めの眉、キリリとした目元が印象的だった。
「沖縄の人なのに訛りがないんだね」
僕は出会ったその日のうちに、そう麻理に言った。
「小さい時に上京したからね。お父さんの仕事の関係で。あなたはどこ出身なの?東京?」
「神奈川だよ。海に面した、鎌倉の方」  
「湘南育ちってこと?」
「そう言うことになるね」
僕がそう言うと、真里は、なんかかっこよくてムカつく、と初対面の僕に向かって膨れっ面をしたのだった。

写真部の活動は、あまりにも退屈であった。カメラを持つ人の方が少数派で、実質的な活動は、東京の観光スポットをだらだらと散策することに終始した。集まりには2回ほど参加したが、その2回目には麻理と一緒に会を抜け出してデートに漕ぎつけたのだった。

「この写真部っての、本当に退屈よね」
「ハンバーガーよりラーメンの気分だなぁ」
「全部食べないでちょっと残しといて、あたし、豚骨味も食べたい」
「鎌倉ってどういうとこなの」
「えー今度連れてってよ、地元案内して」
僕の頭の中には、その日の麻理の色々な表情が鮮明に残っている。麻理が鎌倉にやってきたのは、大学1年生の11月のことだった。

寺や大仏などを見て回ってから、実家に行ったのだから、麻理が味気のない顔をするのも無理はなかった。
「なにもないのね、この辺り」
「そうだね。なんでも、昔は商店街だったらしいけど」
「あれって駄菓子屋さん?」
麻理が坂の上の方を指さして言った。僕は頷く。
「あたし、喉渇いたわ」
「菓子で喉を潤すのかい」
「ちがうわ、ラムネとかないのかな。昔から好きなの」
ゆうに80歳は迎えているであろう店主の女性に会釈し、僕たちは駄菓子屋に入った。ラムネを2本買い、飲み口にはめられたビー玉を叩き落とすと、軽快な音が鳴った。

「坂の上って何があるの?」
ふと、麻理がそんな疑問を口にした。
「なにもないよ」
「えーうそぉ、公園くらいあるんじゃない?」
「たしかに、公園はあるな。ブランコとシーソーしかないけど」
僕の中に、ちょうど1年前の記憶が蘇ってきた。
「あと、神社もある。イチョウが綺麗なんだ。今の時期だと特に」
麻理が行ってみたいと言うのに、時間はかからなかった。

「ここ、丘が2つあるのね。ここ自体も大きな丘なのに、頂上に2つ。遠くから見たら、クマさんみたいに見えるんじゃないかしら」
「その発想はなかったな」
僕は笑いながら、叫びの丘に近づいていった。その横を通らなければ、神社のある丘には行き着くことはできない。しかし、今回はあの低い叫び声は聞こえてこなかった。僕は麻理の背中を追いかけた。

イチョウは今年も綺麗に紅葉していた。木の下ではしゃぐ麻理をシャッターに収める。
「あ、不意打ち。もっと可愛く撮ってよ」
そう言って麻理はモデル気取りのポーズをとり始める。僕は麻理のこういった気安さが好きだった。僕もプロのカメラマンの如く、上半身をぐにゃぐにゃと動かしながら、様々な画角でシャッターを切り続けた。

「ほら、乗ってみなよ」
帰り際、僕は道の途中にある公園でシーソーに乗りながらそう言った。
「あたしの方が沈んじゃったらどうするの。恥ずかしいんだけど」
「女性はふくよかなほうがいいんだよ」
麻理の平手打ちが頭に炸裂する。笑いながら、麻理はシーソーに跨ってきた。

「ぅうぁ、ぁぁ」
忙しなくシーソーを動かし、笑い声を上げる僕の耳に、その低い叫びは届いた。
「なに、どうしたの?」
僕の様子が変わったのを察知したのか、麻理が心配そうに声をかける。
「ぅううう、ぁ」
僕はシーソーから降りた。
「なになに、どうしたの」
「聞こえないか?なんか」
「なに?鳥?」
「ぁぁぁあ、ぁう」
「何も聞こえないわよ、顔色が悪いわ、お腹でも痛いの?」
本当に麻理には聞こえないのだろうか。もう3回も、叫び声は聞こえてきている。この周囲に、叫びの丘の住人がいるとしか思えなかった。

周囲を見まわした時、僕の目には人影が映った。それは、ここから50mほど離れた場所に立っていた。青いタンクトップに、白いステテコを履いた、浅黒い肌をした人間だった。頭には麦わら帽子を被り、顔をうかがい知ることはできないが、その露出した、ほっそりとしているが筋肉質の腕を見ると、それが男性であることが分かった。

僕の全身の筋肉は、細かく震えていた。叫び声は、その男の口から発せられている。
「どうしたの、帰ろうか?」
麻理には男が見えていないらしい。僕は頷いた。
「だれがぁ、だれっ、がぁっぁ」
男の叫びが大きくなる。僕は麻理の手を取った。
「だれっが、いかれ、いかぁ、いかれとるってぇ」
僕は麻理を引いて駆け出した。後ろを振り返る。男は一歩もそこから動く様子はない。困惑する麻理を離すことなく、僕は自宅まで一気に戻った。
すぐさま鍵をかけ、息をついた。
「なんなの、どうしたの」
僕は何をどう言っていいのか分からなかった。
「お、お腹が、お腹が痛いんだ」
僕はトイレへと入り、便器の蓋を開けることなく、そこに座り込んだ。
「変なの」
ドアの向こうから、麻理のそんな呟きが聞こえてきた。

大学生活は、おおむね順調と言えた。麻理とは何度か喧嘩をしたが、それでも付き合えているのは、相性が良いということなのだろう。大学2年の秋になり、入学当時の熱も冷め、難しくなる授業も相まって、僕は少しずつ、自由を制限されていった。10月になると、必修の授業で読書課題が出た。ヘルマン・ヘッセの著書であった。再来週の授業で、内容についてのディベートを予定しているという。

僕はその日、自宅の前を素通りし、100mほど坂を上った場所にある書店を訪れた。
「何かお探しかい」
僕が文庫本のコーナーをうろうろしていると、男性店主がそう声をかけてきた。
「海外の著者の小説はどこにありますか」
「海外は突きあたりの角の棚だよ。誰の本だい?」
「ヘッセです」
僕は海外コーナーの前に立った。
「君、読書家なんだね」
「いえ、大学の授業で読むように言われたんです」
「なるほどね。君、文学部なのぅぁかぁい」
「え?」
「だから、文学部なのかい?って」
「あ、え、ええ、そうなんです」
僕は動揺を隠せなかった。今、僕は確かに、店主の口から発せられた、低い呻き声を聞いた。
「お会計お願いします」
「はいよ。カバーはつけるかぁぁ、うっ、い」
「は、はい......」
僕は店主から本を奪うように受け取ると、慌てて店を出た。
「まぁぅぁいどありぃっい」
背後からまた低い叫び声が聞こえる。僕は自宅に飛び込んだ。なんなのだあれは。まるで、店主が叫びの丘の住人になったようではないか。疲れているのだ。きっとそうだと言い聞かせて、僕は祖母に、ただいま、と声をかけたのだった。

大学3年生になると、祖母が体調を崩しがちになった。最初は、自分の曲がった腰が痛いのだと言っていたが、日に日に食事の量が減っていく祖母の様子を見ていると、どうやらそれは筋肉や骨からくるものではなく、体のさらに内側からくるものであると、理解することができた。医者から貰った薬を飲むと、祖母は生気を取り戻したように見えた。しかし、それも長くは続かなかった。祖母は台所にもあまり立てなくなり、僕は冷凍食品と、少しの自炊料理で、日々をしのいでいた。

「最近、大学来てた?なんか久しぶりじゃない?」
麻理が大学の講義室でそう話しかけてきた。
「けっこうサボってるかも」
「一丁前に悪ガキぶっちゃって。単位落としたらどうすんの。一緒に卒業するんだかんね」
「ああ」
僕の表情に陰りを感じ取ったのか、麻理が真顔になった。
「なんかあったの。どした?」
「いや......」 
「なんかあったんでしょ、ほら、言ってみ」
僕は祖母の現状を麻理に語った。
「え、じゃあさ、今度ご飯作りに行ってあげるよ」
「え?」
「また鎌倉行ってみたいし。ね?」
「いや、悪いよ」
「あたしが行きたいって言ってんの。今週末はどう?空いてるでしょ?」

麻理が自宅に来るということもあり、僕は駄菓子屋へと向かった。麻理が好きなラムネを渡す、来訪に対するせめてもの感謝のつもりだった。店の中に置かれた小さな冷蔵庫から100円のラムネを2本取ると、僕はレジへと向かった。
「ごめんくださーい」
店主の老婆の姿が見えず、僕はレジの奥の擦りガラスに向かってそう呼びかけた。しばらく待っても、反応はない。
「あの、いらっしゃいますか?」

(ドンッ!)

奥から、硬いものがぶつかり合うような、鈍い音が響いた。

(ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン)

今度は、それが連続的に聞こえてきた。物が落ちた音でも、猫のイタズラでもない。人間が故意に発しているとしか思えない強力な音だった。僕は財布から500円玉を取り出し、トレーの上に置くと、お釣りのことなど考えず、店の出口に向かった。ガタガタガタガタ、という音に振り返ると、レジ奥の擦りガラスの戸が揺れていた。その向こうには、老婆よりも背丈の大きな人影が浮かんでいた。

「ぅうぁぁ、ぁう」

坂道を全速力で駆け下りると、そこには両手にレジ袋を携えた麻理の姿があった。
「あ、ラムネだ。買ってきてくれたの?」
僕はまだ引くことのない恐怖心の中で、麻理に頷きかけた。
「これ、今日使う食材。冷蔵庫入るかな」
「あ、ああ、悪い悪い。ありがとな」
レジ袋を玄関に置き、鍵をしっかりと施錠すると、麻理が後ろから抱きついてきた。
「どうしたんだよ」
「久しぶりだから」
上目遣いで僕の方を見てくる。吹き飛ばない恐怖心がもどかしい。
「ご飯作ったらさ、一緒にドラマ観ようよ。今日が初回なの」
「分かった。観よう」
麻理は笑顔で頷き、部屋の中に入って行った。祖母に挨拶する麻理の元気そうな声が、家の中を満たした。

叫びの丘の住人は、確実に自分の家に近づいてきている。最初は丘で叫び声が聞こえ、その次は公園に現れ、書店、駄菓子屋の順に近づいている。それが自分の元にやってきた時、何が起こるのか。一刻も早くこの町を離れたい気持ちに駆られたが、病状の悪化から、祖母が入退院を繰り返したこともあり、そうもいかなくなったのだった。

祖母が亡くなったのは、大学4年生の2月下旬、卒業を間近に控えた時であった。僕は葬儀を終え、悲しみに暮れながら、引越しの作業を進めていた。僕も春から社会人である。東京にある社員アパートに移り住む予定だった。ベッドなどの大きな家具はすでに備え付けられているため、僕は出費を抑えるため、業者には頼まずに軽トラをレンタルし、自分で引越しを完了させたのだった。そのため、新居に運ぶべき物に漏れが生じるのも、無理はなかった。僕は実家にいくつかの食器類と、DVDプレイヤーを置いてきていることに気づいた。食器などはこちらで揃えることもできるが、DVDプレイヤーを新たに買うとなると、家計に痛くないとは言えなかった。

叔父が管理することとなった鎌倉の旧実家は、まだ入ることができる状態だった。DVD プレイヤーをダンボールに詰め、僕は部屋を見渡した。急に懐かしみを覚えた僕は、高校時代に使っていた貯金箱など、一度は置いていこうと決めたはずの思い出の品を、いくつか箱に詰め込んだのだった。

(カッカッカッカッ)

台所から聞こえてきたのは、聞き慣れた包丁の音だった。だか、祖母はもうこの世にはいない。僕の背中に悪寒が走った。
「誰か、誰かいるのか」
返事はない。ふと、包丁の音が止む。僕は恐る恐る、台所の方を覗き込んだ。そこには誰もいなかった。

僕は目に入った食器棚の皿を、とにかく迅速に取り出していった。段ボールにまとめ、同じく棚の中にあったガムテープで封をした。ガムテープを元に戻そうとした時、伸ばした僕の左腕に、触れるものがあった。それは、誰かの、浅黒い右腕だった。隣を見る。

「だぁれがいかれとるてぇぁ」

麦わら帽子を被った、皺だらけの老人の顔が、僕に笑いかける。黄色い歯が覗く。その真っ黒な瞳を前に、僕は声が出せなくなった。老人を押し退けるように腕を振ると、床に落ちた皿が派手な音を立てて割れた。駆け出した僕の右足首に、強烈な力がかかる。振り向くと老人の手が足首に巻かれていた。

「にげるぅぁでないぞ。ぅっあ」

とてつもない力で足が引かれていく、僕は床を掻いてそれに抗い、皿の破片を老人に投げつけた。老人の手が離れる。

「あっああぁぁっあああああああああああああああああああ」

老人の叫びとともに、饐えたような匂いが鼻をつく。僕は何も持たず、玄関から外に出た。後ろを振り向くと、家の中の廊下を全速力で駆け抜けてくる老人の姿があった。視線を切り、坂道を下る。足がもつれる、なんとか転ばぬように耐えたが、2度目にもつれた時には、地面に向かって、強かに顔を打っていた。

「だれがいかれと、いかれとるてぇなぁはっぅんあぁあいぁっ」

うつ伏せのまま後ろを振り返ると、老人はまだ僕を追いかけてきていた。その距離は急速に縮まりつつある。僕はなんとか立ち上がり、地面を蹴った。角を何度か折れると、道端に捨てられた自転車が目に入った。鍵は刺さったままだった。角の向こう側からは、老人の性急な足音が響いてきている。僕は自転車に跨り、目的地も考えず、5分ほど全力で漕ぎ続けた。

坂の下にある町に出ると、コンビニの前に自転車を捨て、店内に入った。レジには若い女性が立っている。
「すみませんっ!警察、警察呼んでください。変な人に追いかけ、追いかけられてるんです!」
女性は急な申し出に顔を引き攣らせたが、その緊迫の様子を読み取ってか、すぐ呼んできます、と言い残し、店のバックヤードへと入っていった。

店の床に座り込むと、僕は大きく息をついた。幸い、店に客はおらず、醜態を見られたのは店員だけに留まった。

1分、2分が過ぎた。店員は戻ってこない。僕は立ち上がり、バックヤードへと声をかけた。反応はない。

「ぅうおぁ、あっあ」

声がしたのは、店の出入り口からだった。店の外から、ガラス扉越しに、老人がこちらを見ていた。中に入ってくる様子はない。僕が出てくるのを待っている、そう直感的に理解した。僕は迷わずバックヤードに入り、店員を探した。その姿はどこにもなかった。裏口のドアは施錠されている。僕は袋小路にはまってしまったようだった。

老人は、依然として入口の押し扉の向こうで直立している。扉ごと体当たりするしか方法はなかった。そうと決まれば、僕は勢いよく駆け出した。ドアごと老人を吹き飛ばし、先ほど捨てた自転車に跨る。漕ごうとしたが、ペダルが動かない。チェーンが外れているのだった。後方では老人が身を起こし始めていた。僕は自転車を捨て、駆け出した。

バスか、タクシーか、咄嗟に思いついた手段はそれらだった。僕の目線は忙しなく動いた。そのため、僕の注意力はあらゆる方向に散り、著しく低下していた。後方からバイクが迫ってきていたことを知ったのは、車道に出てしまった後だった。僕の横腹にとてつもない衝撃が加わり、重力が反転した。視界は、すぐに闇に包まれた。

目を覚ますと、僕は病院のベッドの上にいた。体を動かそうとすると、全身の筋肉に激痛が走った。僕の呻き声を聞きつけて、1人の看護婦が僕に駆け寄ってきた。動いてはだめですよ、と制すと、バイクに轢かれて全身を強く打ったこと、肋骨と肩の骨が折れていることなど、僕の現状を伝え始めた。それと同時に、気絶する前の記憶が僕の中に蘇ってきた。僕は、老人に追われていたのだ。僕がベッドから起きあがろうとすると、看護婦が厳しい声を上げた。
「に、逃げないとダメなんだ」
「どういうことです?今はとにかく安静にしていないと」
「ちがう、ちがうんだ。本当に逃げないとあいつが来るんだ」
点滴の管に手をかけた僕を、看護婦が押さえつけにきた。怒号が飛び、複数の看護婦、そして医者まで駆けつけてきた。
「はーい大丈夫ですよー。ちょっとまだ痛むんだねぇ、鎮痛剤打ちますからね。すぐ痛いの治まりますよー」
僕は腕を押さえつけられ、そこに医者の持つ注射器の針が刺さった。僕はしばらくして、また気を失った。

目が覚めると、辺りは暗かった。病室の中は静まり返っている。今は夜だと理解できた。いったいあれから何時間眠っていたのだろう。僕は起きあがろうとしたが、体に一切の力が入らなかった。まだ鎮痛剤の効果が継続しているらしい。ナースコールを押せば誰か来るかもしれない。腕くらいなら動かせるかと思ったが、それは鉛のように重くなっていた。

(カッ...カッ...カッ...)

遠くから足音のようなものが聞こえてきたのは、僕が腕を半分ほど上げた時だった。

「ぅぅあ、いっぁあ」

僕は腕に全力を込めた、しかし、力を込めれば込めるだけ、その動きはさらに緩慢になった。

(カッカッカッカッ)

廊下の外で駆ける音が聞こえる。その音は、無慈悲にもこの病室に近づいてきている。ナースコールを早く押さなければならない。声を出そうにも、舌が重く、喉も開かないような状態であった。

「だぁれが、いかれてるってぇ」

声のした方を向くと、老人が病室の入り口に立っていた。その目は、闇の中で鈍く光っている。

一歩ずつ、老人は近づいてくる。ゆっくりとした動作だが、確実に、その距離は縮んでいく。

「ぅあぅあぁ、いっいっぁ」

老人の手が、僕の眼前に迫る。顔を掴まれたと思った次の瞬間、僕の意識は途切れた。

「ねぇねぇ、噂、聞いた?」
「噂?なになに」
「この坂道、出るらしいよ」
「出るらしいって、何が?」
「お化けよ、お化け」
「え、なにそれ」
「なんかね、ここにいると、低い叫び声みたいなのが聞こえてくるらしいの」
「えーこわぁ。それってなに、人の声なの?」
「そう、人の声」
「えーじゃあお化けじゃなくて不審者なんじゃない」
「確かにそうかもね」
「イカれた人っているもんねぇ。あーこわ」


僕は外を通る、女性の嬌声を聞いていた。
「だれが、いかれとるってぇぁ」
僕の口から、そんな言葉が出てきた。

「ぅうぁ、ぁぁ」

(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?