見出し画像

連続投稿1500日を迎えて

ご訪問いただき、ありがとうございます。

私にとって特別な節目である、連続投稿1500日目以上を迎えましたので、その喜びを皆様と分かち合いたいと思います。(1500日はおおよその数値です。)

約4年前(正確な記憶ではありませんが)、noteを開始しました。

道のりは平坦ではなく(いやテキトーなので楽勝)、アカウントを2度も削除(*^^*)するなどの紆余曲折がありましたが、コピペを交えつつも、なんとか毎日投稿を続けて参りました。

この間、個性溢れる、そして何よりも素晴らしい人柄を持つ、素敵な方々との出会いがあり、心から感謝しております。

まず触れておきたいのは、私のアカウント名「今日1日ありがとう」についてです。なぜこの名前を選んだのか、正直なところ明確な理由はありません(笑)。

しかし最近になって、この名前の意味するところが少しずつ見えてきました。機会があれば、その由来についてもお話ししようと思います。

ただ、不思議なことに、まるで習慣のように「〇〇〇〇年◯月◯日ありがとう」と記すようになりました。

さて、長い前置きとなりましたが、本題に入りましょう。毎日記事を投稿し続けることで、私自身にどのような変化があったのか、そして「ありがとう」という言葉の先に何を見出したのかについて、綴っていきたいと思います。

「ありがとう」の先に見つけたものは、実は2つあったのです。

① ありがとうの先には人がいる


ありがとうの先には、いつも誰かがいます。これは、英語の"Thank You"を思い浮かべてみれば一目瞭然です。

"Thank"の後に必ず"You"が続くことからも、感謝の言葉は常に誰かへと向けられているのです。例えば、美味しい料理に感謝するとき、それは「私から(美味しい料理を作ってくれた)あなたへ」という感謝の気持ちが込められています。

電車で席を譲ってもらった時や、誕生日を祝ってもらった時、はたまた予想外のナンパを受けた時(!)にも、この「私からあなたへ」の感謝の気持ちが生まれます。

しかし、そこからさらに一歩踏み込んで考えてみると、「ありがとう」の先には、もう一つ大きな存在が見えてきました。


例えば大病を経験した時や、コロナ禍で普通の生活ができなくなった時、今まで普段通りにできたことへの感謝が湧いてくることは、これはちょっと今までの感謝とは異なる存在ですね。


そして


②「ありがとうの人の先には神様がいる」という考えが結論として出てきました。

ーあるいは、絶対的な科学力を持ったすごいやつ―

、、、、はい、出ましたよ、神様、、、、

といっても神様と聞くと、うーん?って思われる人もいらっしゃるので、「地球(C)をコントロール(C)しているすげー(S)やつ(Y)」略してCCSYにしましょう。(^o^)

このCCSYの存在は、直接見ることはできないけれど、様々な体験を通して感じさせていただきました。

今日はその経験を2つだけあげてみましょう。

それは1つ目は、視覚障がい者との触れ合い、2つ目は、1円玉の奇跡、、、


視覚障がい者との触れ合いは3年前に月に1度、2年ほど続きました。簡単なパソコンの使い方のレクチャーのような感じだったと思います。

でも、その中で一つ、忘れられない頼まれ事がありました。ある視覚が不自由なお子様を持つ親御さんから、信号が見えにくいので、「赤と青、信号を見分ける装置を作って」というもの。

人工知能を使って信号の色を識別させるというアイデアは、一見シンプルで斬新。

だけど、その装置が誤作動したら?という問題にぶつかり、プロジェクトは頓挫しました。

しかしながらその際に気づきました。目が見えることという当たり前のことがいかに尊いものかと

そこで気づいたのは、「目が見える」という日常の奇跡。

想像してみてください。時価総額日本円でおおよそ400兆円(2024年4月現在)のマイクロソフトも、アップルもエヌビディアもソニーもキャノンも、世界をリードする眼科医も、人間の目のような驚異のシステムを作り出すことは(今は)できない。

これらの巨大企業や天才たちですら、目という自然の傑作には及ばないんです。

こんなにも複雑で、美しく、完璧な目を、一体誰がデザインしたんでしょう?そう考えると、ふとした瞬間に、自分たちが生きる世界の裏には、なんとも言えない大きな「何か」が存在しているような気がした記憶があります。

もしかしたら、それは全ての科学者やエンジニアを超える、宇宙最大のデザイナーかもしれませんね。

そして、私はそのデザインの一部を、当たり前と思わずに、ただただ感謝するしかない。まるで、目が見えること自体が、最高にクールなギフトをもらったようなもの。

それを作り出したのが誰であれ、素晴らしい仕事をしたことだけは間違いないです。


2つ目の、1円玉の奇跡についても書いてみましょう。

さて私たちの財布の中の小さな1円玉について、、、、、

日々のおつりとして、あるいは財布の隅っこでひっそりと存在しているこの小さな円盤。

人間はこの1円玉を(造幣局などで)作り出しことは出来ますよね――そう、確かに私たちはその技術を持っています。

しかし、その1円玉を構成する素材、つまりアルミニウムについてはどうでしょうか?

アルミニウムはボーキサイトという鉱石から抽出されますが、このボーキサイトを私たち人間が作り出すことはできるでしょうか?残念ながら、それは今のところ不可能です。


アルミニウムの原料になるボーキサイト。ウィキペディアより引用


では、ここで一つ大きな疑問が生まれます。「ボーキサイトは、一体誰が作ったのか?」これは、私たちの日常に溶け込んでいる数え切れないほどの物質や素材が、実は私たちの手の及ばないところから来ているという、ある種の哲学的な問いに直結します。

天才的な科学者や技術者たちも、自然が数百万年、数十億年の時間をかけて作り上げた作品の前では、ただ謙虚にその素晴らしさに頭を垂れるしかないかもしれません。

1円玉一つを手に取るだけで、これはまさに、私たちの日常に隠された小さな奇跡。

そして、その奇跡の背後にある「誰か」や「何か」――

それがどんな存在であれ、私はその創造力にただただ敬意と感謝を表するしかありません。


(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)(*^^*)



私はもともと宗教的なものにはあまり興味がありませんでしたし、神様を信じるタイプでもありませんでした。

高校受験で失敗し、やむを得ず宗教系の学校に進学したことも影響しているかもしれません。

参考までに↓

ですので、もし誰かが私の話を聞いて、「私は神様を信じなかったが、この話だけで神様を信じられるようななる」のはそれは少しヤベーやつと思います。(ちょっと言い過ぎました)

それは連続投稿1500日という行動が伴っていないからです。

行動(投稿)してみてはじめて得られるものがある。

私がここで伝えたいのは、これを読んでいただいた人が神様の存在を信じるようになるべきだということではありません。

ただ、1500日間感謝を続けてみた結果、個人的な感情を共有したかっただけです。


おしまい

見ていただいてありがとうございました



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?