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  • 書きなぐり短編小説

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幻聴と幻覚と

いま、腕を折り曲げてしまえば、私は死ぬ。 いま、このまま穏やかな眠気に負けて寝てしまえばまた地獄が私を襲う。 もう嫌なんだ。 もう自分の体がずたぼろになっていくのは嫌なんだ。 ずっと深淵を揺蕩う深海魚のように、日の目を見ることなく生きていくべきだったんだ。 無茶して陸にあがって、無茶して人並みの生活を送ろうとしたからこうなったんだ。 それでも後悔の念は無かった。多分こうでもしていないと自我が形成されなかったから。 私が病院に搬送されるのはこれで何度目だろう、記憶

    • 続・その右手に忠誠を誓わせてほしい

      あー、最悪だ。家に帰るの遅くなっちゃうなあ。 腕時計を見ると22時を過ぎていた。 目頭を押さえながら、よろめく脚を叱咤激励させる。 よろよろと立ち上がるあたしの目の前で強面の青年がほくそ笑んだ。 予備校帰りでくたくたのあたしを襲ったのはこの青年―叔父さんだった。 叔父といっても年齢はあたしのちょっと上ぐらいだし、その実態はまだ社会にも出たことのないしがない大学院生。 親の権力無しでは何も出来ないすねかじりで、節操なしで、兄―あたしのお父さんにも平気で暴言を吐くダメ

      • その右手に忠誠を誓わせてほしい

        家に帰っても「おかえり」は返ってこなかった。 今日はバイトじゃないはずだし、どっか行っちゃったまま帰ってきてないんだなあなんて呑気なことを考えつつ夕食の支度をする。 彼女が好きな炊き込みご飯。彼女が好きな味噌汁。 家にいると彼女のことばかり考えてしまう。 彼女―同居人の瑞穂がうちに転がり込んでから半年が経過した。 中学生の頃抱いた東京への憧れを捨てきれず、単身で田舎を飛び出し上京してから三年。実家には一切連絡を取らなかったし、あちらからも連絡が一切来なかったのでその

        • きっと、明日の私はまた後悔するのだろう。

        幻聴と幻覚と

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          自殺はなぜよくないのか

          ※一部グロテスクな表現も含まれていますので苦手な方はブラウザバックを推奨します。 人はなぜ自殺を悪と見做すのだろうか。ひとつ私が疑問に思っていることである。 生きる理由が無くて、死ぬ理由があるのであれば人は死を選ぶだろう。 ただ、死ぬほどの理由が無いから生きているだけ。 漠然と生きていたら何かがあるかもしれない。死んだらそこで意識は終了する。その後には私の知らない地平が残るだけ。 積極的に生きる意味は見つけられないけど、消去法で生きている。 私はそんな人間だ。

          自殺はなぜよくないのか

          相互理解の大切さ

          まずは現在九州地方で頻発している平成28年熊本地震について、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。 私は九州在住ではないため、現在の状況はTwitterやFacebookを通じてでしか把握することができません。そのため詳しいことをどうこうと物知り顔で書き連ねる資格はありませんしその気もありません。 そこで遠巻きながら見ていて自己啓発も兼ねて思ったことを書いていこうかなと。 今回の震災で一番情報のやり取りが多かったのは「物資について」だと思います。水だって食料だって

          相互理解の大切さ

          夢と虚無と

          ああ、気が重い。 気が重い。 体が重い。 いつにもましてひどい寝癖を整髪剤でがしがし直しながら洗面台に立ったわたしは、あまりにも見るに堪えない顔をしていた。それだけだけでいっそう気が重くなる。 そもそもは昨日の飲み会だった。サークルでの集まりで同期にひどく酔い潰され、終電間際で電車に乗り込んだまではよかった。 そこで昔の想い人に偶然再会してしまったのが悪かったんだ。向こうもこっちもほぼ同時に互いに気づいて、ほぼ同時にそっぽを向き合った。 あっちは気まずさで、こっち

          夢と虚無と

          空気を読むということ

          空気を読まなきゃだめ。 察しなきゃだめ。 何がいけないのでしょう。 そりゃあ確かに人が傷つくようなことは言ってはいけませんし、主張していいときとすべきではないときがあることは分かっています。 それでも自分が知らない事柄に関してひそひそした動きから察しろというのは無理な話。そこには会話がなければ事柄の全容を把握することは不可能です。ぼんやり見当はついても確証は得づらいですよね。 私はこれが苦手です。今も、昔も。 恋愛においても対立においても、私は察することができません。

          空気を読むということ

          イメージの病理

          まだ私が中学生か高校生だった頃、恩師のとある先生から一冊の本を渡されたことがあります。 タイトルは『毎月新聞』。NHKの『2355』などで有名なメディアクリエーターの佐藤雅彦さんの本でした。この本は文字通り実際の新聞の夕刊に月1回掲載されていた記事を集約したもので、基本的に見開き2ページ(4ページの時も)が1回(1月)分という構成になっています。ちょっとした片手間に読めるわけですね。 私が渡された当時は出版から数年が経過していた状態でしたが、その独特な切り口とアプローチの

          イメージの病理

          AO義塾という存在、推薦入試という存在

          言わずと知れた名門、東京大学。 その東京大学が先日推薦入試の合格発表を行いました。 報道によれば、合格者は77人。思ったより志願者が少なかったとかで話題になってますね。 そんな東京大学の推薦入試制度。ここで私がちょいと気になったことを取り上げたいと思います。 AO義塾といえば、自身を小学4年生と偽り衆議院解散について疑問を投げるサイトを立ち上げて炎上した慶應生が数年前にいましたね。その関係で今も私はいい顔はしていませんが(何様って感じでしょうけれども)、今回はそこが焦

          AO義塾という存在、推薦入試という存在

          献血に行ったら点滴をぶち込まれて帰ってきた話

          なんとなく思い出したので、久しぶりに実体験に基づく話をしようと思います。 確か去年の初夏だったかな? 私は無料のオニオンスープとレディーボーデンのアイス目当てで献血に行くような貧乏性なのですが、その時もアイスをたかりに足を運んだわけです。 受付を済ませたら担当のお姉さんから「今回は成分献血をお願いしたいのですが、どうでしょうか?」との言葉が。 この時私は過去に一回しか献血をしたことがなかった(しかも200mlの全血献血だった)ので不安が無いわけではありませんでした。しか

          献血に行ったら点滴をぶち込まれて帰ってきた話

          雪の日

          あれは大雪に見舞われた日だった。 電車はもちろんバスやタクシー、交通機関は全部壊滅していた日、今でも鮮明に覚えている。 ローファーが泥やら雪やらで汚れていくのを尻目に、僕は試験会場へと急いだ。 晴れの日だったら単語帳やらノートやら読みながら最後の追い込みができるんだけど、とも考えた。けれどもそれ以上に僕の頭を占領していたのは緊張だった。 今日が一番肝心なんだ。と、いうのも今日は第一志望の大学の受験日。 僕の前を歩く人も、僕の後ろを歩く人も、全員僕のライバルになるわけで。絶

          雪の日

          いずれは死ぬ

          私は死にたがりだ。 自分が嫌いで嫌いで仕方なくて自分という存在が認められなくて、両親や親戚にもここまで育ててもらったのにこんなロクデナシで申し訳なくて、トラブルメーカーで、承認欲求オバケで。 だからすぐに死ぬ死ぬ言う。 当然ながらそう簡単に死ねるわけもなくここまで生産性のないウン十年を過ごしてきたわけだが、それでも私は「死ななければならない」という観念に囚われているばかりである。 私は他の人より劣っているし生産性だってない。特別なスキルもない。強いて言うなら文字を書く

          いずれは死ぬ

          自己嫌悪と自己愛

          心の健康なんてどこにもないじゃないか。 最近そう思うようになった。 随分昔、それも私がまだ小学生だった頃、とある大きな病院に連れて行かれたことがある。 大きな怪我も病気もしていなかった私はただ親の診察について行くだけなんだと勘違いし、診察室の片隅に置かれていた白い砂と模型を両手に自分の妄想と想像に耽っていた。それが箱庭療法という名前の立派な心理療法だったと知ったのは私が高校生になってからのことである。 多分母親は私がうつ病か何かだと勘違いでもしたのだろう。 実際、当

          自己嫌悪と自己愛

          遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。

          遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。

          線路の「終点」

          昔から線路の末端、いわゆる「エンドレール」が大好きだった。 とりわけ鉄オタでもないし旅行を生業としているわけでもない、ましてや最寄り駅が終着駅でもない。それでも電車で終点まで向かった時はついついエンドレールを覗きに足を通わせてしまうぐらいには線路の終点が好きだ。 気づいたときにはエンドレールに興味を持っていて、周囲から物珍しい目で見られたことも少なくない、と思う。 なんせラッシュ時でも新たな駅であればエンドレールの写真を携帯に収めないと気が済まないぐらいだから無理もない

          線路の「終点」