好ましい評価があった。 だから自信を持つというのはおかしい。 悪い評価を受けて瞬間的にイヤな気分になった場合と同じ、それ以上の感情を捏造しないように。 瞬間的な喜びを否定する必要はないが、事実以上の心象を味わう習慣は、好ましくないことの場合にも適用される。 同じ外的なものだ。好ましい評価でも、必要以上に喜ばない。
事態は決して好ましくない。 だが、それも自然が決めたことであり、そうであることを覆すような力は持っていない。 お前に与えられているのは困難や逆境を通じて美徳を表現する力のみ。 そしてそれは外から奪われることは絶対にない。 反対にそれ以外のものは一時的な借り物であり、返却期限がくれば、黙ってお返す以外選択肢はない。
まっすぐでいるか。まっすぐにされるか。 美徳から目を逸らし、自然の道理を外れた生き方をするのもよし。 だがその場合は、いずれかならず自然によってお前の意志は矯正されるだろう。 自然によって正されるか?自分の意志で正しくあるか?どちらを望むのか?
これは逆境ではなく、普段通りのチャレンジに過ぎない。 自分を使って美を表現する、そのための舞台なのだ。 うまくやる、なんとかなる、それらの先にあるのは、美しくあること。 自身が芸術作品であるかのように振る舞う。
うまくやろうとしない。 そうすればうまくいくのか?結局、結果に善し悪しを見出している限り、このループは抜け出せない。 自然が最適な結果へ導いてくれるし、どんな結果でも、それを善く使う力をもう持っている。 力を入れても力を抜いてもどちらでもよし。 どちらにせよ、どんな振る舞いをするか最後は自然に身を任せるしかない。
人にできることはたかが知れている。 力を入れなくていい。運命があるべき場所へと運んでくれる。 だからといって、「力を入れてはならない」と力む必要もない。 力を入れても入れなくてもどちらでも、結局、運命の馬車が向かう先は同じ。 緊張したり、力んだりするのも含め、あるがままに任せる。
逆境や困難、苦痛を感じる状況は、哲学をするのに打ってつけの場所。 平和で穏やかなのに越したことはないが、そうでない時間もまたいい。 そんな時にこそ日頃の練習の成果が試されるからだ。 テスト、逆境や困難を嘆く必要はない。 それは人間の自然の感情、人が持つ本来的な力を引き出す恵みだ。
ストア派の思考技術は、精神的な動揺の拮抗薬であり、治療薬ではない。 不安や苛立ち、怒りに囚われないための予防線に過ぎず、どのぐらい練習したのか?が本番で試される。 うまく対処できなかったとしても、その経験は次で活かせる。 うまくやろうとしないで自然に振る舞えばいい。 出るべき結果が出るだけだから。
私たちを守ることができるものは何か。 それはただ一つ、哲学だけだ。
あらゆる悩みは本気で悩む価値はない。 どんな悩みも生きていればこそのもの。 そうやって悩めているということは、今ここは平和であるという証拠。 死の瞬間から眺めれば、どんな物事も悩む価値がないことが分かる。 まだ残されているもの、失っていないものに目を移すこと。
死の間際、シュトロハイムはいった。 人間の偉大さは恐怖に耐える誇り高き姿にある」と。 外的な困難を内的な強さで乗り越えようとする姿は美しい。 正義や勇気が放つ美は理屈を超えたものがある。 思慮の力で個の枠を越えること。 美徳を表現することで自身が美しくあるように。
自分自身の判断が外から害されることはない。 もし判断が変わったとしたら、より強い判断によって、自分が変えたということ。 精神の城塞、外部からは侵犯されない完全な守りである。 激しい感情で心が揺らいだ。 敵が侵入したのではなく、精神を乱した犯人はお前自身でしかない。
もし美徳が身についたとして、 それに対する賞賛を欲したり、 そうであることを誇ったり、 そうでない人を見下したりした場合、 その瞬間に美徳は離れていく。 理性による徳、それだけを求めること。
ずっと宗教を忌避して生きてきたが、それは特定の思想に盲信することへの忌避感であり、決して信仰を否定するものではなかった むしろ信仰心に厚い人間なのだと今やっと納得できた気がする。 それでいいというか、それこそがずっと欠けていた最後のピースなのかもしれない。
限りなくゼロを目指す。 ほんのわずかであっても保身の気持ちは迷いや躊躇いにつながる。 人間の自然を完成させ、よりよく死ぬため、もう一段階上を目指せ。
セネカがいうように、好ましくない物事は精神の訓練になる。 逆をいえば、それがなければ精神の練習にならない。 「苦労は買ってでもしろ」と同じ、逆境や困難はあった方が自分のためになるのだ。 マルクスは悪徳をなす人たちに囲まれていたのだろう。 皇帝としての責務を果たしながら、嘘つきや不正をなす人に対して寛容であるのは大変だったはずだ。 だが、それは人間が有する自然を完成させる上で恵まれた環境だったともいえる。