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【港区】愛宕神社

愛宕神社に行ってきました。

ホームページによると

1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。

近隣にも徳川家の菩提寺である増上寺、家康を祀った東照宮などもあります。徳川家にゆかりの深い場所でもあるようです。

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この石段…見た目からして怖い。城壁をおもわせる雰囲気です。

石段は別名「出世の石段」とよばれていて江戸時代に3代将軍徳川家光が通りがかりに

「あの石段を馬で登れる者はいるか?」

といわれて

「御意」

とばかりに馬で登った曲垣平九郎がその後出世したということからその名がついているんだとか。

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歩いてのぼるのは昔の人にとってはどうってことなかったのかもしれませんが、安心安全に慣れきっている現代人(僕)にとっては危険なレベル。

直前に悪ふざけして転んで泣いてしょげている娘とこわごわ登りました。

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実は都内で一番高い山です。

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アースダイバーの中沢新一氏によると、かつてこの地に住んでいた縄文人は岬の先端(多くが海に囲まれていた)を祭事場などで聖地化していて、そういった場所は現代になっても、神社などの聖地となっているんだとか。

(渋谷の代々木八幡では男性を象徴している石棒も出土しています。近場の御茶ノ水でも貝塚がでていますね。)

ここもまさに岬の先端といった場所です。

地形図をみると高低差がスゴイ。縄文の人はここから海の眺めを楽しんだことでしょう。おそらくここも昔から聖地化されていたのかなと妄想。 (高層ビルが立ち並ぶまでは眺望が楽しめていたみたいです)


現在の地図

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1860年代の地図(大江戸今昔巡り)をみると周辺地域は寺だらけです。

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愛宕神社は

愛宕権現社 別当 円福寺

明治になる前までは神仏習合で、明治になってから神仏分離、廃仏毀釈で円福寺は廃寺。

今現在、愛宕神社の下で埋蔵文化財発掘調査工事をしています。その円福寺時代の遺跡発掘の為だと思います。

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神社境内 小ぶりな神社ながら多くの参拝客でにぎわっていました。

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神社の境内には出世階段看板の他にこんなものもありました。

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江戸城無血開城会談の地

西郷と勝海舟の会談の場所って三田と田町の薩摩屋敷だったような気がしますけど、諸説あるということでいいのかな。


そしてこちらは桜田烈士愛宕山遺跡碑 

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1860年に江戸城桜田門外にて大老の井伊直弼が水戸藩士と薩摩藩士に殺害されますが、襲撃した18人が襲撃前に集まった場所がこの愛宕神社。

いまから160年前の3月に雪の降る早朝に桜田門外に向かっていったと。考えるとブルっとしますね。

この事件は明治維新の引き金になった大事件で、襲撃した側、襲撃された彦根藩側、関係者はほとんど死罪か自刃。武家社会の厳しさを感じます。サムライにあこがれますか?下手打ったら言い訳無用関係者一同死ななきゃいけない。厳しいですよ。僕はならないほうがいいなぁ。

でも、徳川幕府にゆかりのある神社なのに、徳川幕府崩壊のきっかけになった事件の碑が建つというのは少し疑問符がつくところでもあります。

碑にある東京市長 大久保留次郎は1940年 - 1942年在任 太平洋戦争真っ只中の碑。時代の思想というのも見えますね。


そして個人的に不思議なのは池。都内で一番高い山の頂上に池って不自然じゃないですか?

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そしてこの池の中には日本初の三角点が眠っているのだとか。

実はこの写真にも写っているのですが、アップされた画像だとわかりません。(また訪れて写真をあらためて撮りたいです)

都内一高い山、そして三角点が池の中にあるということは解せないなとおもっていたら、昭和51年に東京の新名所として設置したようです。


さらに参道を下るときの気になる石碑がありました。崩れ落ちてボロボロです。

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字を拾って読むに「隆盛」「鹿児島」「戦于」「警視隊」「巡査」「判事 鷲津」

こちらは西南戦争に東京からおもむいた警部巡査戦死の碑

この碑は明治12年6月に建てらて、南方の広場にありましたが関東大震災によって崩れてしまい再び再建。

時をへてボロボロになっていますが、これは日本の内戦の慰霊碑で歴史的にも価値があるので修復してほしいです。

なぜこんなに薄くボロボロはがれるのかというと、この石はスレートでできているから薄くはがれるのではないかと思います。


東京時層地図 明治初期 9~19年

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すでに円福寺は廃寺になっています。もう山の上に三角点があるじゃないですか。

この三角点が今は池に沈んでいるってどういうことですか(笑)

神社も回りの寺院にくらべると小さいですね。

東京開化三十六景

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明治8年頃の絵ですが海が間近にみえ、海岸線も汽車も走っているのがみえます。

汽車は明治5年1872年に新橋(汐留)~横浜間で開業。

方向的にみると汽車は汐留を出発したばかりで、真ん中右にある森は芝離宮か浜離宮か

真ん中の森にかこまれた建物はこの時代の地図でいうと東京鎮台会計倉庫、江戸時代だと伊予松山藩 松平隠岐守勝善の屋敷のようにみえます。

神社の境内っていう雰囲気でもないですね。


愛宕神社の南にあるのが青松寺

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縁起
開山当初は麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称されました。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移りました。寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。明治八年(1875年)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校します。翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併し、今日の駒澤大学へと連なっていきます。大正十二年(1923年)の関東大震災では堂塔は烏有に帰してしましましたが、歴代住職と檀信徒の青松寺復興に寄せる思いはあつく、今日の時節到来を迎えて再開発を行い、往時の伽藍を再建し、願いが叶えらました。
これにより青松寺本来の姿に立ちかえり、活溌な機能を果たす仏法興隆の場として、世に広く応じる事のできる構えを備えるに到ったのです。

六本木ヒルズがあった場所に曹洞宗の学校があってそれが現在の駒沢大学になったと調べたことがあったのですが、

年代的にみると、明治8年に曹洞宗学校となり、翌年合併したあと六本木に学校を構えて、大正にはいってから駒沢に移転したようです。

明治9~19年頃の地図にはこの場所に学校があったことは記載がないというのも納得できます。


明治後期

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愛宕神社という表記はなく、愛宕祠となっています。祠とは神職のいない場所ですね。これはどういうことか。

官報 1886年4月

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愛宕神社は公園になっていた。

公園に祠がぽつんとある感じでしょうか。地図の大きさ的にも大きくなさそうです。

公園からの眺めは非常に良かったようです。国会図書館デジタルにも眺望抜群の土地とあります。


大正期 関東大震災前

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昭和戦前 昭和10年頃

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大正14年、愛宕山に動きがありました。

官報1926年8月

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社団法人東京放送局施設許可 新名義人 社団法人日本放送協会

日本放送協会 すなわち のちのNHK誕生の地

戦後昭和20年に尊攘義軍10人が山上にて自害し現在も慰霊祭が行われていると案内版にも書かれていました。やはり聖地的な場所でもあります。


高度成長期前夜 1955年頃

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愛宕山に放送協会文化研究所ができています。現在はNHKの放送博物館です。

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バブル期

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おわりに

当初は徳川家にゆかりの深かった愛宕神社と円福寺ですが、明治維新後は円福寺は廃寺、愛宕神社も眺望のいい公園の一角となっていたところを、

いろいろと知恵を絞って、時流をとらえ今のような参拝客の絶えない神社に変わった様子が東京時層地図を通して見えてきました。

周辺も寺院が多く、何回も訪れてみたい場所です。

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