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【文京区】六義園

先日訪問した小石川後楽園に非常に感銘を受けまして、次なる大名庭園はどこぞと探して六義園(りくぎえん)に行ってまいりました。

六義園は5代将軍徳川綱吉の側用人として仕えた柳沢吉保の別邸にあたります。

側用人は将軍と老中の間を取り持つ職でその実権は老中もしのぐほどで、柳沢吉保は加賀藩旧下屋敷を1695年に綱吉から拝領して、ここを下屋敷とし7年間をかけて1702年に六義園をつくります。

六義園の名称は紀貫之古今和歌集の序文に書かれている和歌の基本の6つの基調、六義から名づけられているのだとか。

6つの基調というのは
そえ歌(他の事に思いを寄せて歌う歌)
・かぞえ歌(数字が組み込まれている歌)
・なずらえ歌(物事になぞらえて歌う歌)
・たとえ歌(ものに例える歌)
・ただごと歌(ありのままの表現)
・いわい歌(お祝い)
というようです。

六義園は和歌山の南西部にある和歌の浦を模して柳沢吉保が自ら設計したといわれています。

完成後は将軍徳川綱吉が訪問すること58回とかなりのお気に入り。

綱吉の在任期間は長く、1680年~1709年の30年間近くになります。
六義園完成が1702年すると7年間の間に58回の御成りですから、年に8回で、ひと月に1回はいっていたということになります。

たしかに将軍綱吉ならずとも月に1回は行ってみたい素晴らしい庭園でした。

ここは東京だぜ?OKー!!(by氷室京介)

小石川後楽園(1630年頃)が中国色強い庭園であるならば、六義園(1695年頃)は和歌山を題材にした日本風庭園です。

文化的にも鎖国(1670年頃に鎖国が完了)が進んで内向きの文化になっていったようです。

さて江戸時代の地図と東京時層地図を見てみましょう。

大江戸今昔巡り 1860年前後

松平時之助歩保中 と書かれていますが、Wikipediaによると

柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)1846~1893年

明治維新後の奈良県の発展に大変に貢献した人として知られているようです。戊辰戦争時は新政府側について戦ったというところも庭園が保持されたのポイントの一つだと思います。


東京時層地図です。

現在の地図 駒込駅から近そうにみえますが、現在は南の入口しか空いていないのでけっこう歩きます。

明治初期

明治13~19年頃の地図 荒い地図ですね。とくに六義園のような表記はないです。

六義園は時代とともに整備が行き届かなくなり荒れていき、明治維新を迎えます。

明治初年の1868年に三菱財閥の岩崎弥太郎が六義園とその周辺を購入して整備します。

明治後期

明治後期(明治39~42年 1906~1909)

明治後期にはすっかり綺麗になって岩崎邸も建っている様子。
このころには岩崎家は三代目の岩崎久弥になっています。

赤レンガで今のように囲ったとのことでしたが、その範囲は今の倍あるようにみえます。

南西にも池があります。

こちらも岩崎邸の一部だったのでしょうね。見た目が鴨狩場っぽいです。羽田の回で鴨狩場を調べましたが、鉄砲で撃つというのではなく、家鴨を放って仲間と思わせて誘い込ませて網で捕まえるいう牧歌的な手法でした。

今でも皇室の行事として行われているようです。

地図の東側が岩崎邸がありますが、その場所へ向けて写真をとってみました。

旧岩崎邸跡

芝生でとくなにもありませんが、明治時代の駒込岩崎邸はこちらに立っていました。この写真(1905年頃)での位置関係はピッタリ。

大正時代

関東大震災前

大正時代には今あるように赤レンガで覆われたお宅になっているようです。周りには空き地が多い様子がわかります。おそらく三菱岩崎の所有地だとおもいます。

この辺りは関東大震災後には宅地が立ち並びます。三菱は不動産業にも力を入れていました。三菱地所といえば丸の内の大地主で有名ですが、六義園周辺にも手を伸ばしていたことがわかります。

東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 大正11年

100年前。このアングルで写真とってみたいですね。

六義園は関東大震災でも被害がすくなかったようです。

この辺りの地形は更新世段丘といって、周囲が削られた結果、周囲より階段状に高くなった平坦な地形で、地盤は良く地震の揺れや液状化のリスクは小さいようです。

実際にこのあたりは高級住宅街になっています。
美智子皇后旧居や総理大臣加藤高明邸や総理大臣若槻礼次郎邸など。

加藤高明についてはここで何回か取り上げて、青山霊園のお墓にもいきましたのでもはや私はプチ加藤高明研究家といえるかもしれません(嘘)

実の所は古地図を当たると三菱に当たる、三菱にあたれば加藤に当たるといったところでしょうか。(加藤は岩崎弥太郎の嫁婿)

大名屋敷だったところをまるまる払下げてディベロッパーとして売っていく。鳥肌立つような先見性がありますね。

とくに三菱が好きっていうわけではなく、地図をみていくとそういうことが見えてきたというだけです。

南側に理化学研究所があるのも安定した地盤によるものかもしれません。
理化学研究所は湯川秀樹、朝永振一郎、利根川進、などのノーベル賞受賞者が在籍した国内有数の研究機関です。

理化学研究所は和光市に移転していますが、こちらも和光市のハザードマップをみてみると地震による液状化の心配もごく少ない地域にあるということがわかりました。

昭和初期戦前

1938年(昭和13年)には東京市に寄贈され一般公開されます。岩崎久弥は清澄庭園も寄贈。

六義園は東京大空襲も切り抜けます。

(NHKの空襲マップをみたところ)周りは焼野原になってしまっているので、米軍になにか目的があったのかもしれませんし、空襲被災者のご遺体600あまりの仮埋葬地となったという記述もありました。おそらくは今、運動場になっているあたりかなと思われます。

1950年代

高度成長期前夜

六義園は1972年に無料開放。それにともない風紀の悪化で再び有料化。
この辺りは小石川後楽園と同じ道を歩んでいます。

バブル期

バブル期

六義園は柳沢吉保がつくり、時代とともに荒れて、明治になってから三菱岩崎の財力で復活し、現在に受け継がれているということがわかりました。
周辺の大名屋敷もまとめて買い取って、宅地開発するなど、三菱岩崎のしたたかさというのも地図を見ながら感じることができました。

なにはともあれ素晴らしい空間。
ありがとう柳沢吉保
ありがとう三菱岩崎
ありがとう東京都


築山で記念撮影。ここからの眺めは素晴らしかったです。行かれていない方はぜひ一度。
この灯籠、大正時代100年前の絵葉書にも写っていました。テンションが上がります。
東京じゃないみたい
こんな鬱蒼とした沼もあるんです。塀を隔てたほんの10m先は車が走っているのに異世界間がスゴイ。
このシダレザクラは戦後に植えられ樹齢70年とか。

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