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水引

あられです。

お久しぶりです。
実は5月から体調を崩していました。
脳脊髄液減少症という病気になりました。
生まれつきの病気に加えてまた新たな難病が仲間入りしました。

で、今日は髄圧を上げる治療をしたので症状が落ち着いているのでひさーしぶりにnoteに手をつけました。


今日のテーマは水引。
皆さんご存知ですか?
お祝いごとなどについてたりしますよね。
基本の結びから複雑なものまで。
何色もの水引で作り出すそれは日本の素敵な文化だなと思っています。

実は私、水引作れるんです。梅結び、玉結びくらいなら作ることが出来ますし、実際ピアスにしてつけてたりします( ≖ᴗ≖​)ニヤッ
(ほしい物リストに水引あるのでプレゼントしてくれたらうれぴよ)

なんで私が水引を作れるようになったのか、そして水引になぜ思い入れがあるのか、それは4年前に遡ります。

ちょうど4年前、高校三年生だった私は故郷を離れて家族と離れて1人、札幌のど真ん中の病室にいました。
きっかけはそこから半年前のこと。
いつもの治療出した。いつもの治療をするために私は歩いて手術台に乗りました。
私が自分で歩けたのは、
それが最後だったのかもしれません。

治療の副作用というのでしょうか。
30回ほどやってた治療。まぁ数打てば副作用や合併症にもなります。
治療後、足首が麻痺してしまいました。
それと同時に足首が曲がらなくなったのです。
歩くことが出来ず、指は丸め込んだまま動かせない。
つま先立ちが元々できなかった私は歩く手段が無くなりました。
何とかロフストランドクラッチを1本追加でネットで買って松葉杖のようにして地元に帰りました。
それが高2の夏の話。

高3の春。
みんなが春休みに入るひと足お先に、テストが終わった次の日に札幌に旅立ちました。
治療内容はヒラメ筋の切除。
それによって麻痺はどうにも出来なくても足首を曲げられるのではないかという淡い期待でした。


結果は惨敗。
全然伸びなかった。元々病気に侵されてヒラメ筋は機能していなかったのでプラスの支障はなかったのが幸いでしたがそれでは歩けないまま。

どうにか出来ないかと言う話になりました。
唯一の選択肢はアキレス腱を延長させ、足首の腱を移植して付け替える手術をすること。
この、高3の春を逃せば次は早くても1年後。その頃にはもっと悪化してるかもしれない。
やるなら今しかない。

ちょうどその歳は妹子の卒園と小学校入学の春。
付き添いの母は地元に帰りました。

残された私は1ヶ月半ほど一人で入院生活を送りました。道内の友達が遊びに来てくれたり(コロナ前)、そこまで寂しさは覚えなかった。と、言いたいところですがやはり寂しいし不安。
次の手術も上手くいかなかったら?

なにより
受験のスタートをみなと一緒に切る事が出来なかった。

自慢じゃないけど高2の春までは学年で数えられるくらい上にいたんですよ笑
薬学部目指してたりなんかして。

でも、今みんな必死に勉強してるのに私はできてない。
進学校だったから範囲は終わってたけど入試のポイントとかさ、先生は言うじゃないですか。
それがきけないのがしんどかったんですよね。
コロナ禍前でリモートなどないので全て自主勉です。

でもそんな私に救世主が。
私が札幌の病院に通い始めた小一の時からずっと同じ病棟で看護をしてくれてたベテラン看護師さんです。
勤務の日は、私が担当じゃなくても朝必ず来てくれて今日はなんの教科を何の教科をどこまでやるの?と聞いてくれたり、退勤の際にはどこまで終わったの?と聞いてくれるとてもお母さん的な存在でした。サボってるとちゃんと叱られるし、できてたら褒めてくれる。そんな看護師さんです。

ここで小話。
実はその看護師さんのことが小さい頃は怖かったんです。だって無愛想だったんだもん。

まぁ、そんな看護師さんがとても天使に見えたんです。いや、天使だった。そしてお母さんだった。

その看護師さんがプライベートで自分の趣味用にと思っててできなかった水引を気晴らしにって持ってきてくれたの。

これが私と水引の出会い。
昼休みの時間を縫って、時には退勤後に、時には病棟が平穏な時に病室に来てくれて一緒にあーだこーだ言いながら水引を一緒に作る。

その時間が私はとてつもなく、とてつもなく嬉しかった。

看護観に外れたことだったかもしれない。
でも当時の私には唯一の救いだった。
そして今でも大好き。

適切なメンタルケア(言い方が正しいわけじゃないけど、心理職に繋がれなかったという点ではこのいいかなかなと🤔)に繋がれてない状態で私が周りに当たり散らかしながらも受け止めてくれた。私の尊敬する看護師さんのひとりです。

水引をしている間に色んな話をしたり、夜勤の時は眠れなくて詰所に行って喋ったり。
しんどくてどん底だったけど(今思えばそんなにだけど当時はしんどかった)、でもその中でも私は人に支えられて生きてきたんだな〜と。

発達障害が学びたくて適当に選んだ(失礼)心理の学科。でも私が当事者として色んな立場の人から色んなアプローチを受けた、そしてそれについて時には傷ついたり、時には救われたりした。経験や当事者性で臨床をするのは危険だと思っているけれど、心理学に導かれたのは私の背景から来ているのではないかなという思いです。

その看護師さんから教えてもらった水引は私にとって特別なものです。
特別な、私のどん底な気分を救ってくれた、課題や学習管理などにおしりを叩きつつ、自分の時間を削ってくれることに感動を覚えました。

今でも私の夢を応援してくれてるAさん。
また札幌言ったら顔出すね♡
病棟変わっちゃってショックだけどしんどくなったら無心で水引作ってるよ。
私にいいコーピングを教えてくれて、そして人の愛を教えてくれてありがとう。
ココの場でお礼をさせてください。

新作作れたらどこかで売りに出してみよかな。
Senちゃんに伝授してもらお!

今日は私と水引の大事な関係についてでした。
そろそろおネムなので寝ますね💕︎
おやすみなさい

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