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おみやげde名著 〜正岡子規のカルタ〜

小学二年生のとき、司馬遼太郎の『坂の上の雲』に夢中であった。『坂の上の雲』は日清・日露戦争時の日本を描いた作品で、日本騎兵の父と呼ばれる秋山好古、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」という電文の一節が未だ名高い、海軍参謀秋山真之、そして俳人の正岡子規を主人公としている。当時、彼ら三人の故郷である愛媛県松山市を訪れ、子規記念博物館、坂の上の雲ミュージアム、子規堂などを見て回った。もう十数年も前のことだが、今回はそのお土産を通して、子規の俳句をご紹介したい。

『-あいうえお- 子規さん俳句かるた』松山市教育委員会編,松山市子規記念博物館監修.
現在は販売されていないようです。

悔やまれるのは、博物館で売っていたであろう子規の資料集を買って帰らなかったことである。のちに寺田寅彦や森鷗外の記念館を訪ねたときは、気に入った資料やグッズを購入したものの、このときは幼すぎて気が回らなかった。その代わり、私は当時でなければ買わなかった物をお土産にしている。『—あいうえお― 子規さん俳句かるた』である。子規の作から七十二句を選び、バ行やパ行も含めてカルタに仕上げた力作であるが、一人っ子の私にはカルタ遊びは快適でなく、遊んだのは十回にも満たなかったと記憶している。母と遊ぶときは母が読み手、私が取り手をするのだが、対戦相手がいないため、いくら闘争心の薄い私でも張り合いがなくてつまらなかった。だが一度だけ、カルタで盛り上がった思い出がある。私は大人数で遊ぶのが苦手であったが、その日はめずらしく近所の友達三人を家に呼んで『子規さんかるた』をした。友達を古臭い文学趣味につき合わせるとは身勝手だ、と思われるかもしれない。しかし実際は、友人たちのほうがこのカルタに乗り気であった。なぜなら当時、俳句は流行の先端を走っていたからである。私の成績表に、それを裏付けるコメントが残っている。

好きな俳句や歌人を友だちに紹介しました。その結果、学級内で俳句を詠むのが流行するほどの影響力でした。

給食時間のたび、何の脈絡もなく「『大佛の大きさ知れず秋の風』。繰り返してみて。ううん、『知れず』。そう。子規の句だよ。」などと言っていたのを思い出す。迷惑がらずつき合ってくれた級友たちに感謝しなければなるまい。

さて、共に『子規さんかるた』をした友達にとびぬけて人気だった句が、

ツクツクボーシ ツクツクボーシ バカリナリ

である。皆この句を一目で覚え、自分の札にしようと息巻いた。この句のどこが子供たちにうけたのか。それは読み手をつとめたK殿の様子から推察できる。K殿は「ツクツクボーシ ツクツクボーシ」と、鈴のような声でよどみなく読み上げたあと、しばし間をあけ、いたずら心に満ちあふれた顔をしながら、下の句を口にしようとしていた。しかしちょうどそのとき、私が札を見つけ「バカリナリ」と言って取ったので、他の取り手二人はともかく、K殿までが下の句を詠めなかったことを盛んに悔しがった。つまりこの句のうまみは、下の句の「バカリナリ」に凝縮されているということがわかる。あえて言うのも阿保らしいが、普段は口にすべからざる「バカ」という言葉を正々堂々と発することのできる部分が、小学生を魅了したのであろう。何にせよ、どことなくおかしみのある句には違いない。子規が知れば喜んで、子供たちがカルタに興じる姿を詠むだろう。

また、七十二句のなかで、しみじみ懐かったのが、

寝ころんで 書読む頃や 五六月

である。声に出して読んでみてほしい。初夏の午後のゆるやかな風と、寝転んだ畳のさわやかさが匂いたつようではないか。近ごろ気のふさいでいた私も、心のなかでこの句を繰り返しているうちに、のんびり本を読む心地よさと、子規のおおらかな明るさが体中をだんだんに広がり、靄がうすれていくような思いがした。どんな解説がつけられているか気になり、付属の解説集をひらいてみたのだが、意外な文句に思わず大声をあげた。「寝ころんで読んで、それでも勉強を続けようとしている子規さんの頑張る姿が見えるようです。」と書いてあるのである。さすがは教育委員会の編集だと言うほかない。

絵札を一枚一枚めくっていると、「ぺ」とだけ書かれた真っ白な札があって驚いた。控えの札にしても「ぺ」だけあるのは不自然だ。印刷ミスであろうか。歌札の「ぺ」を探してみると理由が解った。こうある。

※子規さんは、その生涯に二万三千六百四十七句というたくさんの俳句を作っています。そこで、なるべく多くの子規さんの俳句を皆さんに知っていただきたいため、普通では作らない濁音・ガ、ザ、ダ、バの行や半濁音パ行のかるたの作成にも挑戦したのですが、残念ながら、ぺ音ではじめる子規さんの俳句はありませんでした。

作り手の誠意と熱意を感ぜられて、これも良い札であると思った。

むかし母にすすめられ、何の気なしに買って忘れていた『子規さんかるた』が、今では記事の種になり、面白おかしい思い出にもなるのだから、お土産は惜しまず買うのが吉である。

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