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メタモダニズムと、ゴジラ-0.1

メタモダニズムは、すなわちモダニズムとポストモダニズムが持つ、双方の意義と顛末の循環を内包させる形で、
そのようなモダニズムとポストモダニズムの在り方を再構成の材料とし、再帰に至らせる、新古典主義的な営みなのだろう。
正確には、再構成という行為そのものが材料であり、概念運動の帰結や、その飽和ごと再利用してみせることで、在り方の伴った再呈示を達成することが目的化したと言える。

映画になぞらえるならば、ゴジラ-1.0だ。
いささかニュアンスに頼る形になるが、シン・ゴジラで監督の庵野秀明が作中で示した本質は、
あくまでポストモダン的なパロディとリファインの文脈から形成されており、それに対する批評も、表象文化論や、比較文学的な対象認識のセンスを頼りに要素の抽出がなされているため、
表面処理に終始する軽薄さが、重厚の振りをしているに過ぎず、その表現性に対する批評は、90年代と正統消失の主観であるゼロ年代的な思想を反復的に反映させる射程圏にしか成り立たないのである。

正統をちゃかしているうちに、正統がなくなったというところだろう。

ようするに、シン・ゴジラの正統性は、どこまでいっても"サブカル舐めんな"の正統性で、言うなればゴジラファンのものに過ぎないが、
ポストモダンとメタモダニズムの違いは、シン・ゴジラ論における無人在来線爆弾などの差を発想する再構成の文脈と、
ゴジラ-0.1における、そもそも上陸されたらヤバい生き物としてのゴジラの、上陸したときのヤバさを再帰させることの違いに明らかだと言える。

そして、そのような表象文化論的批評(要するに知識を継ぎ接ぎした深読み)の顛末は、後世の若いクリエイターを育てる言葉として、
「古典(クラシック)を読め」と言った黒澤明がとうの昔に裏側から暴露する形で予見していたことになる。

今や古いものとなったゴダール映画の今日性が、古典に例を持たないかのような野放図な地平を示しうる存在だったとき、
蓮實重彦や、彼経由のゴダールファンは、ゴダールを真似した映画に業を煮やしていた。
しかし、見え透いた未来詐欺に群がった新しい人も、いつかはおじいさんになってしまい、
他ならぬゴダールが歴史となった現代では、彼のような映画批評は再び淀川長治的な一般解説に回収されて、終わってしまった。

国民教育的な振る舞いの余波を皮肉り、市民教育が取って変わったかのように見えたが、ふざけ倒したために、国民教育的な振る舞いのほうが、市民教育的になったのである。

陳腐な芸術映画の振りをしたバッファロー'66を語る方が面白いのはそこらへんにある。
だらだら長いと思ったらだらだら長いと言える。
蓮實のように、トムクルーズは顔がいい。と"敢えて"言って見せるより、
ギャロがかわいい。の方が、はるかに蓮實の「トムクルーズは顔がいい」の軽さを、勿体ぶることなく体現しているからだ。
そして、これは別に蓮實の功績でもなんでもないだろう。

さて、映画批評史における、日本で言うところの蓮實的なるものの終焉の言語化が難しいのは、二重の二重性があるために少しややこしいからだ。
ひとつは批評という、対象認識と構造の抽出が必要とされる、共通の道具を用いなければならないからであり、
もうひとつは、ポストモダン的な作品や批評は、その批評の批評性を自己目的化させる性格を持っているのに対して、
メタモダニズム的な現代性は、はじめからそれらのポストモダン的な時代的な性格とその顛末を、所与のものとして丸ごと回収する立場にあるからだ。

音楽で言うなら、ベイパーウェイブのポストモダン的な再構成と、一見、ポストモダンしぐさに見えながらなんらかの誠実さを再呈示するハイパーポップの違いの分かりづらさであり、
文芸ならば、高橋源一郎の軽薄さから、金閣寺との比較に目配せして待つ、ニッポニアニッポンなどの阿部和重作品を経て、文学界新人賞から評論部門が消えたのと同期して、コンビニ人間が発表された不可解な現象の内実に近い。
どちらも、飽食して茶化してきた生活の基本の方が貴重なものとなることで、ポモにうんざりした。と言えるようになった、と言えば分かりやすいだろう。

とは言え、ポストモダンが、正統性に対するガス抜きならば、メタモダニズムはメタモダニズムで、復元された正統性であることに変わりない。
ポストも、メタも、モダニズムを前提とし、表現された現実に対する解釈の胴元を買って出る意識的調整である以上は、いずれ粗末な啓蒙に過ぎない。
日本では、年をとって丸くなったか、ポモの野放図にうんざりしていた6,70年代生まれのおじさんが、再確認したい若者を集めるくらいだろう。

というのも、それらはいずれ実践を問いながら市民社会の在り方に指図するものでしかないからであり、
その復元された誠実さにも疑問符をつけねばならないからで、
現実には、ポストモダン思想家が敵視して見せた、悪魔化可能なモダニズムの名残が、批評の場から消えたという現実があるだけだからだ。

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