山神景

わたしはカモメ、たわしは亀の子

山神景

わたしはカモメ、たわしは亀の子

最近の記事

シェリング理解の経過メモ。

シェリングの哲学は、彼より後に発展した自然哲学の源流として遡ることが可能な現代人からすると、 見通しの良さが災いし、奥に控えているアリストテレス的なものが分かりやすく、かえって表面上にある神即愛の意義の方が分かりづらくなる。 特に彼とスピノザとの比較だと、自然観察と神即愛、神即自然による決定性(後者がスピノザ)との差違が目立つばかりだ。 そこで、シェリングがプロテスタントであり、彼がその世俗派の形成過程の時期を生きたことに着目すると、 それまでのプロテスタントにおける信仰

    • ポスト・トゥルースの覚え書き

      現代の国家では民族的なルーツは復元の対象となる一方で、市民の匿名性は保護対象となり、これらは並列化している。 また、真実は真実で情報に過ぎなくなる。この場合、受け手や送り手である人間の復元や保護のために主体的に選択される材料としての性質しか持ち得ない。 また、民主主義と資本主義は自由意思を燃料とするため互いに相性が良く、戦争から経済戦争にシフトしたため、現代人は民族(または国民)としても市民としても、なんらかの選択を独裁者のせいにできない。 ルーツの復元性において価値判断を

      • "ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ"というヘーゲルの箴言を読むと、ソーラン節の"ニシン来たかとカモメに問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ"が浮かび、それも箴言のように読んでしまう。いくらなんでも波に聞けチョイは含みが良すぎる。

        • 我々なる主語を成立させる、精神性に纏わる論理は、生成、構築、復元の道を辿る。侵略の忘却は、創世の忘却同様再発見に通じ、方便として語られる"いかに"を満たす内容は"だれの、なんのために"を秘匿する。我々以上の利益のためだが、損益を個人の自由意思に回収するため責任は常に非対称的だ。

        シェリング理解の経過メモ。

        • ポスト・トゥルースの覚え書き

        • "ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛び立つ"というヘーゲルの箴言を読むと、ソーラン節の"ニシン来たかとカモメに問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイ"が浮かび、それも箴言のように読んでしまう。いくらなんでも波に聞けチョイは含みが良すぎる。

        • 我々なる主語を成立させる、精神性に纏わる論理は、生成、構築、復元の道を辿る。侵略の忘却は、創世の忘却同様再発見に通じ、方便として語られる"いかに"を満たす内容は"だれの、なんのために"を秘匿する。我々以上の利益のためだが、損益を個人の自由意思に回収するため責任は常に非対称的だ。

          20世紀後半からの主流哲学の構造。

          20世紀後半からの思想哲学は、もっぱら哲学という叙述形式が有していた論理と、それによって追求することでもたらされるはずの永遠性が、 19世紀の固定的なものから、観察され続ける現象の流動性に仮託されており、 それを観察し続けることで、即時的な霊性の復元を論じるものとなった。 いうなれば流転する万物の復権であり、固定化の顛末ごと内包し、それらを見通しよく迂回しながら再構成する論理であり、対象と主体の間で循環するものが主題とされるのが現代の主流の哲学だからである。 その傾向を総じ

          20世紀後半からの主流哲学の構造。

          シェリング自然哲学と、その展開の批判。

          道教における無為自然と比較するとよく分かるが、シェリングの自然哲学における自然は観察するために固定されている。 カントによると、感性と悟性によって成される認識は、シェリングでは理性による自然の観察へと転化し、それは自然の中の自己を通して倫理に至る、観念論の目的論化だと言える。 それ以後の展開は思弁的実在論に回収されるが、シェリングの哲学が持つ目的論的な性格は、 それ以後の展開では、文中で語られる実在間に生じた、文中には不在の関係そのものを目的化することで継続している。 また、

          シェリング自然哲学と、その展開の批判。

          仏教について読んでいると、バラモン教の魂の階級は統治のために制度化されているため、解脱にも政治性があるように思う。また、乳粥の逸話と達磨大師の座禅への執着ぶりを比較すると、釈迦は瞑想をとっとと終わらせている。魔境に陥った際の消耗が、乳粥を介した悟りと縁起へと至らせたからだ。

          仏教について読んでいると、バラモン教の魂の階級は統治のために制度化されているため、解脱にも政治性があるように思う。また、乳粥の逸話と達磨大師の座禅への執着ぶりを比較すると、釈迦は瞑想をとっとと終わらせている。魔境に陥った際の消耗が、乳粥を介した悟りと縁起へと至らせたからだ。

          手法の限界面から見た環境哲学、ドイツ新実在論。

          思想哲学には著述そのものが持つ能動性が不可欠であり、出力のための入力と、出力されたされたもののための入力の関係しかない。 会話で言えば目と口の能力しかなく、耳を傾けるというときの、"『その場の耳』では無さ"が限界として常につきまとう。 そのような目と手と口の仕組みで、無理に耳の役割を作ろうとして、しゃべる目をやっているのが、最近のドイツの思弁的実在論や再帰的に強調される環境哲学の潮流らしい。 マルクス・ガブリエルの世界を例に取ると、彼の実在論では世界という異なる文脈を多元

          手法の限界面から見た環境哲学、ドイツ新実在論。

          弁証法と脱構築。

          弁証法は矛盾の大元を解消できればすべて止揚になり、なにをもって止揚とするかには決定者の問題がある。 脱構築は弁証法から見た妥協に相当するものを止揚の代替とすることが可能だが、 命題が二項対立の形を取りさえすればその時点で間違った命題とすることが可能であるため、真偽の放棄そのものにまつわる選別者の問題が生じる。 ともに評価する主体に関連した権力の問題が生じるので、だれのための命題かが問題となるのだ。 脱構築を用いると、近代国家は近代国家のふりができ、弁証法では国家という概念

          弁証法と脱構築。

          力への意思と唯一者

          シュティルナーが言う唯一者は、人間の条件づけを拒否する姿勢を含んでおり、 ニーチェの述べた力への意志にも、ロゴスの覇権的な性質を跳ね飛ばそうという姿勢が含まれている。 それらが不明瞭である原因の一つは彼らがヨーロッパの人間だったからであり、それは言わば、欧州の中の反欧州的な立場を意味し、 主張が分離できたのは、ロゴスが覇権的に用いられる際に、『拒否したあなたには理性がない』式に立ち上がる、人間の条件の可否が、一組の現象であるにもかかわらず、実際の文の外にあるからだ。 また

          力への意思と唯一者

          現代的な自己を語ろうとしたら事故った話。(SF小説)

          「自己」は時代ごとに再考され、以下のようにAはBである。の追求そのものによって、AとしてのBに変化してきた。 自我の発明としての自己同一性: デカルト:「我思う、ゆえに我あり」としての自己。自己そのものを同一性を確固たる基盤とし、思考する主体としての自我を強調した。 カント:経験と認識の統一的な基盤としての自我。自己は経験の統合に不可欠なものとして、その経験の統合が同一性となる。 構築された存在としての自己同一性: フーコー:権力関係の中で形成される自己としての同一

          現代的な自己を語ろうとしたら事故った話。(SF小説)

          永遠性以後の哲学。

          真理が担っていた恒久性、神学で堤防と下水道を作って死守するものとなった神の全能と魂の不滅、論理によって達成されるはずの同一律と、理性を介して目指される普遍性。そして科学的な真偽の一般化。 歴史の無常に洗練されて、哲学の論理が抽出する永遠性には、残ったものと、重要ながらも息を潜めたものがある。 仮にそのような哲学を、永遠性以後の哲学と定めたとき、哲学のどのような姿が見えてくるだろうか。 永遠性が抜け落ちた哲学には、いくつかの特徴的な変遷の痕跡がある。 これには以下のような側面

          永遠性以後の哲学。

          ウィトゲンシュタインの哲学は万人は死んだと言うべき立場に近い。彼は文学者としてデカルト論やフロイト批判を書くか、論理学を行うべき位置にあり、教授である彼にとっての他者とは放言するフロイトと学生で、故に彼の命題は命題論に留まり、他者のために論じるテーマすら選別できないはずだ。

          ウィトゲンシュタインの哲学は万人は死んだと言うべき立場に近い。彼は文学者としてデカルト論やフロイト批判を書くか、論理学を行うべき位置にあり、教授である彼にとっての他者とは放言するフロイトと学生で、故に彼の命題は命題論に留まり、他者のために論じるテーマすら選別できないはずだ。

          インスタレーションの非肖像性と叙景。

          インスタレーションアートはなにかを置いたり、吊るしたり、照らすことで投影したりする。 夏雲や冬の星座を指差すようであり、神が不在の世界で、それでも人間が神を想像してしまうような部分、つまるところ、存在不安を逃がすための管理された夢のようだ。 モナリザの微笑は、何を考えているかわからないので、物としては歴史に残る恒久的な他者だ。 そして、他者との回路を復元するものとして見た場合のインスタレーションアートにおいてモナリザに相当する物は、眺める自分の隣で、同じ展示を眺めている人た

          インスタレーションの非肖像性と叙景。

          社会運動の機能しなさ。

          BLMが出てきたとき、黒人は白人を滅ぼすかwhite trashと呼ばれる人々と共に闘うべきで、 LGBTの社会運動がしたいなら、女性を消滅させるか、ストレートカップルのために立ち上がるかで、フェミニストは男と専業主婦を滅ぼすかしかない。 なぜ共闘が無理だったり不在なのかと言えば、部族の解体こそが近代化であり、一切は近代化の帰結に対するガス抜きだからだ。 つまるところ、近代化を抑制できるのは貴族だけで、逆に加速できるのは資本家だけであり、 近代化の兵隊でしかない、解体された

          社会運動の機能しなさ。

          表象文化論の終わりと、そのこれから。

          表象文化論はそもそも文化論として無効であり、むしろ文化論として無効だからこそ、語る対象を文化にできる。 つまり、表象文化論とは、かつて、その主観の補強が批判され、後に物証主義寄りになった民俗学と真逆の批評における構造解析のプロセスを経ることで、非文化を主観的な文化にすることが可能となるわけだ。 なぜならば、文化とは主観的な日常そのものであり、みずからの文化を文化と呼ぶならば、それはすでに文化ではないからで、文化を文化と呼ぶのは文化の側から見た他者だからである。 この働きによ

          表象文化論の終わりと、そのこれから。