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『死んじゃいけない星』の少女ポートレート作品について語るときに

大槻香奈作品の少女ポートレート作品について語るときに我々の語ることといえば、「作品を前にするとそれについて語る言葉を本質的に失ってしまう」、ということではないかと思います。特に今回はその感覚が強くあります。

もちろん批評は可能です。聖母像から続く女性ポートレートの歴史的文脈があり、そこに連なるあらゆる女性像の現代的なモデルとして、日本という国での同時代的なアニメーション的表現が取り入れて云々。かつ制服という記号と16歳という年齢設定によって想起される社会的意義が云々。そう記述することは可能なのです。それを整理する仕事は確実に必要だし誰かがやらなければいけません。それはもしかしたら僕を含めた関係者の役割かもしれません。
「言葉にならないんですよ」なんていうのは職務上(そして個人的に)許されざる考え方であり、その端っこでも良いから言葉にしてとっかかりを作るのが我々の仕事です。



けれども、いわゆる批評的な言語、あるいは外部の安全地点からの眼差しによっては少女ポートレート作品の本質的な部分には触れることができないのではないかと思います。
それくらいの強度で、ポートレートに描かれた少女たちは、画面の中で絵画的に実在している。
この感覚を正確に記述する言葉を僕は知りません。けれども今使用可能な言葉で記すならばこのように書くしかないのです。

少女たちは画面の中で絵画的に実在しており、その絵画空間の中での個別の生があり、「少女ポートレート」と言うシリーズではなく、個体として尊重されるべき存在である、のではないか。
この作品を本質的に理解しようと思うと、一個人として向き合った個人的な物語における共感でしか接続できないのではないか。

大槻香奈は自身の作品を、鑑賞者に対して鏡的に機能することを狙っている、と日々語っています。
故に、このポートレートについて語ることはすなわち自分自身の個人的な物語や視線について語ることと区別がつかなくなるのです。実体験としても、ポートレート作品が響いた様々な方々とお話していてもそのような感覚があります。


だからこそ大槻香奈の「少女ポートレート」は各所有者にとって特別な作品であり、鑑賞者や所有者の眼差しや祈りによって歴史が紡がれる作品であるのではないでしょうか。作家の意図を超えて実在している故に、誰かの手に渡ってからこの作品たちにとって本当の生が始まります。
所有者の眼差しによってその価値と歴史が紡がれるのであれば、それは芸術作品にとって基本的に必要とされる健全な行為です。市場原理そのものが礎となる現代のアートマーケットとは違う仕方で価値を紡ぐことが可能となります。このような仕方は茶ノ湯の世界では当然のこと、と考えるとこの少女ポートレートは日本的な美術史の文脈における位置付けも見えてくるかもしれません。

今回のDM用のポートレート作品を受け取ったときに僕は言葉を失ってしまいました。記号的な語りを拒否するような強さがこの二枚にはあり、素晴らしい作品であることはわかるけれども、一切の言語化を拒否するような眼差しを向けられていました。

なんと語るべきか分からないから二ヶ月間、仕事用PCのデスクトップはこの画像に設定して毎日眺め続けたので、とっかかりくらいまでは言葉にできるようになったかもしれません。

その時点でシラスの配信に二回お呼ばれして、どちらの回でもポートレートの話をしました。個人的な視点をお話させてもらってます。

https://shirasu.io/t/kanaohtsuki/c/yumeshika/p/20240402174505

とはいえ結局はこの二枚を眺め続けて得た感覚は「分からなさを受け入れよう」でした。無理に言葉にするよりも、まずは自分自身の心の震えを信じて、それを大事に時間をかけて解きほぐしていくことが必要で、分からなさをインスタントな答えで解決してしまうとそこから先に進めなくなるのではないか、と。

だからこそ、もし今回のポートレート作品に心を震わされた方がいらっしゃるのであれば、その感覚を信じて作品をお選び頂きたいと切に願います。
それは作品にとっても必要なことであり、その可能性を選び取ることによって生じる未来でしかあり得ない何かがあるはずです。
作品の個別の物語を紡いでいただきたいと心から祈ります。

結局のところ、お伝えしたいことのかけらも言葉にできなかったように思います。この画面で見た作品は、実物とは全く別物です。実在感が違います。
もっと自由に書くことができれば伝えられたかもしれませんが、あとはもう「見にいらしてください」としか言えません。
会場でお待ちしております。



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