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world's end girlfriend / 抵抗と祝福の夜

まだ耳鳴りが続き、この世界にフィルターがかかっていて、24時間経ってこれを書いている今も現実感を取り戻せずにいる。

5月8日(水)にEX THEATER ROPPONGIで行われたworld's end girlfriendのライブ『抵抗と祝福の夜』。
今まで生きてきた中で一番でかい音を浴びた二時間半だった。
最初の一音が鳴った瞬間に文字通り身体が震える。物理的に身体が揺さぶられてその轟音に包まれながら、じわじわと細胞ひとつひとつに音が染み込んで、とめどない意思と音の奔流に巻き込まれていく。比喩ではなく、全身に音を浴びて感覚が解けていく。

中学生の頃にギターを始めて以来、いつからか音楽を構造的に分析しながら聴く癖がついてしまっていた。そんな小賢しい耳をかなぐり捨てて、ただひたすら音楽そのものに身を任せる経験なんていつ以来か分からない。
『Ressistance & The Blessing』リリース前の暗闇爆音強制視聴会では途中で意識が飛びそうになりながらもギリギリで自我を保って楽曲を捉えようとしていた記憶がある。いつの間にか純粋に音楽そのものを楽しむ感覚を忘れていたのかもしれない。10代の頃はきっとそういう聴き方をしていた。
昨晩のあの根源的に崇高なまでの爆音は、強制的に全ての感覚をリセットし、ただひたすらに音を通じてやってくる何かに身を任せて受け止め続けるしかなかった。
その何かと向き合う時に「抵抗と祝福」があった。「抵抗と祝福」そのものだったのかもしれない。よくわからない。とにかくそういうものだった。

10代の終わりに孤独の中でwegの音楽に出会って「孤独を孤独のままに肯定してくれる音楽」だと思った。(こんな風に言語化できるようになったのは大人になってからだけれども)孤独のまま世界と繋がる方法がある、と肯定してくれる感覚があった。それが僕の受け取った「抵抗と祝福」だったんだと思う。

だからこそ昨晩は、今まで身につけた音楽的な耳や感覚、あるいは芸術にまつわる仕事をする中で学んだ知識や視点を全て放り投げて、ただただシンプルに、wegによって鳴らされる音楽に身を任せた。
それはあまりに巨大な音楽だった。人間にこんなことができるのか、人間がこんな崇高を示すことができるのかと圧倒された。ステージ上にいる演奏者たちは音楽のための通路であり器であり、そしてそれを極限までアンプリファイする存在だった。映像も光も全てがwegの音楽のために、そこで鳴らされる「抵抗と祝福」のためにあった。「総合芸術」と呼ぶべきものよりも大きかった。

セットリストも思い出せるし、印象的な光景もたくさんあった。どの曲がどんな風に演奏されたかを書くこともできるけれど、それを記してもあの光景とこの感覚には辿り着けないように思う。あの啓示的祝福を忘れたくない。

本当に、誇張ではなくこの時間の中で過去の自分は死んで、新しく生まれ変わったように感じている。
芸術に向き合うための感覚が全てリセットされて、次の人生に踏み出した感覚。人生を変えてしまう出来事だった。

きっとこの日のためにいろんな出来事があったんだと思う。ある日wegの音楽に出会って感動し、自分でも音楽をやって様々な形で芸術に関わり挫折したり、文字にできないこと書き記すことのできないようなたくさんの出来事、つまり人生があって、苦しみも喜びも悲しみも幸福も通過して、この日に全てが変わってしまうような準備が自分にはできていて、wegの鳴らす圧倒的な芸術によってそれが切り替わったということだ。
この祝福によって新しい人生が始まる。それによって世界に抗い続けることができる。

本当に行って良かった。芸術によってあれほどのことが可能である、と示してくれたことは生きる希望となる。これからも芸術に向かい続けて生きるための希望であり、音楽を好きでいられる喜びでもある。今までの人生で最高の音楽体験だった。

そんな機会をもたらしてくれたweg前田さんには心からの感謝を。本当にありがとうございます。
あなたの音楽のおかげで僕はこれからもこの世界で愛する人々や芸術のために戦っていけます。

*

しかし、こうやって言葉にしてしまうと陳腐に聞こえるかもしれない。でもあんな体験を言語化することのできる人間がこの世にいるんだろうか?
不完全な言語によって自分の体験が矮小化される恐れがあったとしても、この記憶が薄れないように、未来においてこの記録がトリガーになって自分の体験が少しでも鮮明に蘇ってくれれば良いと思う。
何せあの振動は、全身全ての細胞が震わせられる轟音はあの瞬間だけのものだった。あの時にあの場にいる体験そのものが全てだった。

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