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雑記 19 / 作品について語るときに我々の

日々の仕事で「説明する」の比重が大きく、また様々なアーティストのいろんな感覚を日常言語に置き換える作業も多いため「ロジカルな言語感覚を持った人」と言われることもある。
しかし本来自分は直感的な人間であり感覚的なものの方への反応が強い。

最近低下してきたものの、記憶力が割と良いので、直感に対していろんな引き出しの中身を繋ぎ合わせてそれっぽくまとめることができる、というだけではないかという気がする。
表面的にはロジカルのように見えても、実は結論ありきの組み立てなので、本質的には論理的ではない。感覚に論理のようなものをくっつけているだけの場合がほとんどだ。そういう勘は良いので、遠からずのところに着地することができるからなんとかなっている。なんとかやっているんだと思う。結論がいかなるものであれ論理は独立して成立する。

この特性を活かそうと思えば道は他にもあったんだろうけど、「そういうものか」と理解して覚えればなんとかなるジャンルには興味がわかなかった。だから大学では「こりゃあわかんねえな」と面白がって哲学を専攻することにしたし、今だって「わかんないし、説明できないことだらけだなぁ」と思いながら芸術にまつわる仕事をしている。そのわからなさが楽しいし面白い。職業柄、便宜上「分かってますよ」みたいな顔をしていることがほとんどだけど、その顔の下は常に驚きを隠している。

基本フォームが直感と記憶の組み合わせだから、「ゼロから考えて何かを構築する」ことには大きな困難を感じる。パターン認識への反応を思考のとっかかりにしてしまっているため、インプットなしでは構築ができない。既に出来上がった作品に補助線を引く行為には精神的なストレスは少なく、頭を働かせながら身体を動かす事ができる。

ゆえに、自身の身体経験による技術と直観の能力によって創作活動をしている皆さまには非常に頭が下がる。大きな敬意を抱いている。
僕は人類を人類たらしめる行為が芸術活動である、あるいは芸術活動を行ないそれを愛でる理性的存在の事を人間であると考えている。人類が人類であるための活動をしているのが芸術家たちだ、と信じている。そのわからなさに向かっていくことや、謎を解き明かしたり、新たな疑問を持ったり、日常言語では収まりきらない大きな感情や現象を体験する営みには大きな喜びが伴う。作品を挟んで、そこにいる誰かとそうしたコミュニケーションを行うことは素晴らしい体験だと思う。

などということを普段から考えているけれど、昨晩「シラス」の配信にお呼ばれして、大槻さんと共に『ずっといい』という作品を軸に「死んじゃいけない星」という展覧会について考えることは非常に楽しいもので、同時に上記のようなことも強く意識させられました。
お恥ずかしながらの個人的見解も多くお話させて頂き、作者自身から様々な示唆がされ、そこからさらに「作者-作品-鑑賞者」の関係性や対話の可能性が拡がる感覚がありました。

自分なりに作品や展覧会をどう解釈しているか、大槻香奈作品をこの8年クロノジカルに追いかけながらどのように体験しているか。作品について話すことは個人的な視点を明らかにすること、すなわちとあるポイントを超えると自分自身について話すことと等しくなってくる行為でもあります。自身の視点や捉え方がまだまだ狭い範囲のことでしかなく、作品の可能性は大きく、全ての鑑賞者の数だけ開かれている、という実感を得ることができたのは収穫です

有料の番組ですが、大槻香奈個展「死んじゃいけない星」をよりディープに楽しめる充実した内容かと思います。会場での鑑賞が素晴らしい体験になりますように。
再来場の皆さまが一層深く作品と対話できますように。


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