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人混みばかりで文化のない街

昨日は久しぶりに横浜に行きました。いつもいくのは横浜じゃないのかというと、横浜なんですけど狭い意味での横浜駅周辺。109シネマ系の横浜ムービル近くの写真です。昔はこのへんに屋台がいっぱいあったのですが、すべて追い出されてしまいました。横浜駅は人が多いけど通過駅として混雑するんだろうな。あまり見るべきところはないですね。ショッピングとかかな。観光地だったらみなとみらいだし、情緒あふれるのは伊勢佐木町という感じです。

そんなこんなで横浜ムービルで『夜明けまでバス停で』を観てきました。

映画は夕方からだったので、午後3時頃まで部屋でうだうだ。そういえば水道局から漏水の可能性があるというお知らせが入っていて、そんな形跡ないのにな、と思ったら翌日メーターは止まってましただと。たまたま風呂にでも入っていたんだよな。ドアチャイムが鳴っても出れなかったし。でも老巧化アパートだからあっちこっちボロが出始めている。住むには快適な場所なんだけど。

突然解雇されることは無職だからないのだが、退職金で生活をしているのでそれが尽きたらほんとにホームレスになるかもしれない社会なんだよな。あまり先のことは考えずに好きなように暮らして行こうといい加減な気持ちでいるのだが、考えても先行きは暗いので考えないようにしている。

なんでこんな社会になってしまったのだろう。50ぐらいで失職する人の不安定感。実際の事件では、演劇をやっている人で夢を持っている人だった。映画ではそこは描かれていないで、アクセサリー職人みたいになっていた(アート系)。夢も持てずに定職について働けということなんだろうか?そのわりに二世議員とか二世社長とか優遇された社会なんだよな。

そういう人も行き詰まりの社会にはなっている。経済はほとんど回復の見込みもないだろう。魅力もない日本になってしまったのだ。オタク文化なんて言っても秋葉原はすでにそういう場所ではないらしい。AIも日本は立ち遅れているというし、AI社会になっても管理が強まるだけでいいことは見えないのだが。そういえばツイッターで大量解雇。今後どうなるかと話題で。どっか移動場所探している人もいる。

パソコン通信時代からそういうのは何度も経験したから、ツイッターというプラットフォームが無くなってもどこかでやっているだろうが、ネット社会の閉鎖性が明らかになってきたのがここ数年。最初は誰もが自由に利用できて発信できる場所のように言われたが、それも格差があるのだった。

まあそれもしょうがないと思ってしまうのだけど、爆弾は必要かもと思うのは、『夜明けまでバス停で』を観て感じたこと。実際の爆弾ではなく、このシステムを少しでも風穴空けるような、比喩的な意味での爆弾。それが存在価値だと思わされてきているのだ。存在価値だけ言われれば、寝たときに翌朝目覚めないように祈っているというホームレスの先生の言葉が印象的だった。ほんとにそうだよね。

読書。ホフマンスタール『チャンドス卿の手紙』はウィーン世紀末の詩人で作家の書いた小説。幻想譚なのだが、今のネット社会と通じるところがある。貴族社会の没落という意味では『失われた時を求めて』と通じるところがある。そして密かに忍び寄ってくる戦争の足音。快楽を求める者たちが溢れる社会だがこの主人公たちは生き方が不器用で神を求めたりしてしまうのだった。その精神性と身体性のギャップ。だから精神だけが世紀末の街中を彷徨うように生きているのだが、それは他人事でもないんだよな。

人間は確かな足場が必要とされるのだけれどそれが崩れてしまうということ。そのときに人間は何をすればいいのか?


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