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『ゴドーを待ちながら』は、待つ人が主役

『アプローズ、アプローズ︕囚⼈たちの⼤舞台』(2020/フランス)監督エマニュエル・クールコル 出演カド・メラッド/ダヴィッド・アラヤ/ラミネ・シソコ/ソフィアン・カーム/ピエール・ロッタン/ワビレ・ナビエ


解説/あらすじ
囚⼈たちの為に演技のワークショップの講師として招かれたのは、決して順⾵満帆とは⾔えない⼈⽣を歩んできた役者のエチエンヌ。彼はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を演⽬と決め、訳あり、癖ありの囚⼈たちと向き合うこととなる。エチエンヌの情熱は次第に囚⼈たち、刑務所の管理者たちの⼼を動かすこととなり、難関だった刑務所の外での公演にこぎつける。しかし思いも寄らぬ⾏動を取る囚⼈たちとエチエンヌの関係は、微妙な緊張関係の中に成り⽴っており、いつ壊れてしまうかもしれない脆さを同時に孕んでいた。それは舞台上でもそのままに表出し、観客にもその緊張感がじわじわと伝染し始める。ところが彼らの芝居は観客やメディアから予想外の⾼評価を受け、再演に次ぐ再演を重ね、遂にはあの⼤劇場、パリ・オデオン座から最終公演のオファーが届く︕果たして彼らの最終公演は観衆の歓喜の拍⼿の中で、感動のフィナーレを迎えることができるのだろうか?

囚人たちが演劇をやるというのは、すでにマーガレット・アトウッド『語りなおしシェイクスピア 1 テンペスト 獄中シェイクスピア劇団』でおなじみだけど、それをベケット『ゴドーを待ちながら』にしたのが斬新だし、面白かった。ラストも予想外な出来でこれがほんとに実話なのと思わせる内容。

まずは囚人たちが最初は演劇を莫迦にしていたのが、段々と演技に没頭していく。それは囚人たちの日常が絶えず『ゴドーを待ちながら』という状態に置かれているからで、『ゴドーを待ちながら』のセリフがそのまま彼らとリンクするので、芝居では素人でも彼らにとってはリアルな現実なんだということ。その視点に気がついた演出家の思惑通りで、演劇のメタフィクションとしてのドラマが形作られていく。

それだけならよくあるパターンの映画なのだが、何よりもこのようなメタフィクションがただの新奇性にならずに、批評性を持つということが重要なのだ。ベケットのこの演劇自体が批評の演劇であるならば、そのまま演じているならばパロディにしかならない。

囚人たちの現実を見せるだけではよく作られるドラマだということ。そんな映画は珍しくはない。ただここで問題になってくるのが、一人の囚われた演出家のドラマなのである。彼は何を待っていたのか?彼にとって「ゴドー」とはなんだったのか?それがラストに明らかにされていくので、どう批評性を持つのかということがこの映画のポイントだ。

そしてその問いは、彼だけではなく鑑賞者に訴えかけてくるのだ。それぞれの「ゴドー」とはなんだったのか?いや、「ゴドー」が主役ではなく、むしろ「待つ」人が主役だと明らかにされる。その中に『ゴドーを待ちながら』の登場人物、ウラディミールとエストラゴン、ラッキーとポッツォがいるのだ。

その上での「ゴドー」という見えない存在。それはキリスト教徒なら神?。演劇なら演出家(それをこの映画では逆転させていく)?しかし、我々には神はいないとなるとそれは「死」でしかあり得ない。いやだからこそ、それまでの絶望的状態で生きることが求められているのではないか?


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