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短歌の「カラオケ化」から「AKB化」なのかな、昨今は。

『ねむらない樹vol.4』編集委員:大森静佳、佐藤弓生、染野太朗、千葉聡、寺井龍哉、東直子、編集長:田島安江

【目次】
特集1 第2回笹井宏之賞発表!
<大賞>
鈴木ちはね「スイミング・スクール」/榊原紘「悪友」
<個人賞>
大森静佳賞:曾根毅「何も言わない」
染野太朗賞:乾遥香「ありとあらゆる」
永井祐賞:橋爪志保「とおざかる星」
野口あや子賞:渡邊新月「秋を過ぎる」
長嶋有賞:小俵鱚太「ナビを無視して」
選考座談会 大森静佳×染野太朗×永井祐×野口あや子×長嶋有
特集2 短歌とジェンダー
座談会 川野芽生×黒瀬珂瀾×山階基×佐藤弓生
矢野利裕「この社会を生きざるをえない、と同時に、乗り越える言葉」
神野紗希「俳句と短歌 分身としてのジェンダー」
山崎聡子「わたしたちが身体を所有すること」
山田航「現在のことばのちから~飯田有子『林檎貫通式』」
黒木三千代「阿木津英歌集『紫木蓮まで・風舌』の意味」
佐々木朔「「父」、あるいは生殖という呪縛――小池光『バルサの翼』より」
染野太朗「相対化の覚悟と凄み」
巻頭エッセイ
奥村晃作「呼びようのない暮らし」
対談
岡野大嗣×国府達矢「言葉が「うた」になるとき~3分間の詩、31文字のメロディ~」
作品
伊舎堂仁「たすけて」
大平千賀「おかえりと思う」
小野田光「日和見日和」
加藤千恵「特別な季節に」
木下こう「あかるいところ」
黒﨑聡美「葡萄」
佐伯裕子「無臭の太陽」
坂井修一「ミラ」
笹原玉子「わすれられただいじな」
瀬戸夏子「星室庁」
仲田有里「策を練る」
中畑智江「駅とスニーカーと」
藤本玲未「植物園の六腑」
二三川練「笹舟」
山下翔「叔母さん」
吉田恭大「銃とチェーホフ」
コラム
牛隆佑「ただ一人の」
三原由起子「ベレー帽」
佐藤よしみ「ひと夏の経験」
五十子尚夏「「どういたしまして」の美質」
西田リーバウ望東子「二重Doppelleben 生活」
生田亜々子「オオカミ犬ジロー」
山本まとも「カレー」
天国ななお「決済申請書」
ことば派
森山恵「アリア、『源氏物語』の和歌」
宮田航平「《新美南吉》の彼方へ」
忘れがたい歌人・歌書
大松達知「その金をここに差し出し給へ」
越境短歌
松井茂「近隣から見えた反知性主義」
歌人への手紙
佐藤弓生「拝啓、濱松哲朗さま」
たましいを掛けておく釘をさがして――杉﨑恒夫論(終)
ながや宏高「たしかにめぐり居りいま」
短歌の雫
椛沢知世「からまる」
佐原キオ「すべての火」
加瀬はる「スプリング・ハズ・カム」
掌編小説
竹中優子「襖」
歌人の一週間
廣川ちあき/佐佐木頼綱/田中ましろ/石川美南
ねむらない短歌時評
寺井龍哉「されど われらが批評――」
歌会潜入!
東直子「本のあるところで、新鮮に」(ajiro歌会)
学生短歌会からはじまった
土岐友浩「温玉とからあげをカレーに乗せてもらった話」
文学館めぐり
千葉聡+折田日々希・柳村萌「神奈川近代文学館」
文鳥は一本脚で夢をみる 新刊歌集レビュー
梅﨑実奈「時とレッテルの洪水のなかで」
編集委員の目
寺井龍哉「短歌と二人の作家――佐藤泰志と村上春樹」
二二野歌
山川築/佐伯紺
笹井宏之への旅
枡野浩一/筒井孝司「短歌との出会い、人との出会い」
書評
寺井龍哉「戦史の充足」……『戦争の歌』(松村正直)
小島なお「つめたいきぼう、あたたかいあきらめ」……『水のために咲く花』(宮川聖子)
小島ゆかり「惨く尊い命」……『歓待』(川野里子)
笹公人「サーのようなター」……『アーのようなカー』(寺井奈緒美)
伊藤一彦「軽さの奥に」……『煮汁』(戸田響子)
岡野大嗣「短歌界のナジーム・ハメド」……『平和園に帰ろうよ』(小坂井大輔)
西田政史「森を見つめる」……『光のアラベスク』(松村由利子)
大森静佳「心のひと」……『ザベリオ』(大口玲子)
初谷むい「この世界のための新しいルールブック」……『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』(田中有芽子)
鈴木晴香「三つの「間」」……『空間』(生沼義朗)
谷川電話「〈関係〉の歌集」……『風にあたる』(山階基)
宮木あや子「千年先で待ってて」……『愛を歌え』(鈴掛真)
読者投稿
選者=内山晶太/花山周子

『ねむらない樹vol.4』目次

先に『ねむらない樹vol.5』を読んだのだが(図書館本だから借りられていた)、vol.5はリニュアル号となっていて、5号でリニュアルとは短歌雑誌も大変だなと思ったのだが。

原因として売上減少が考えられるが、この雑誌のメインは笹井宏之賞と思うのだ。随分気前がいい賞で、大賞には歌集出版と個人賞もそれぞれあって雑誌に掲載される。
 それでも売上低迷なのかとも思う。短歌ブームとか、それは一部のことなのか、と思った次第。

特集1 第2回笹井宏之賞発表!

第2回笹井宏之賞発表!だが、大賞作もあまりピンと来なかった。選評読んでも、よくわからないことの方が多い。ただ長嶋有は歌人ではないので、彼の読みは参考になった。そういうことで鈴木ちはね「スイミング・スクール」は妥当なんだと思ったが、歌人の評価は榊原紘「悪友」の方が高いような気がした。「スイミング・スクール」は若い人で未来性を買って、「悪友」の方が上手かったのかと思うが、こっちは素人にはよくわからなかった。選者の歌風もわからないから判断もつかないのだけど。もしかして、この選考で内部対立があったのか?売りに行くには「スインミング・スクール」だろうみたいな。わかりやすいと言えば一番わかりやすかったかも。

特集2 短歌とジェンダー

この特集は面白かった。昨今のジェンダーブームである。短歌もいろいろ参考になる。

皆殺しの〈皆〉に女はふくまれず生かされてまた紫陽花となる  大森静佳『カミーユ』
女子だけが集められた日パラシュート部隊のように膝を抱えて  飯田有子『林檎貫通式』
「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの  俵万智『サラダ記念日』
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら  水原紫苑
何から解き放たれて
息をはきだす
40で やっと  今橋愛『としごのおやこ』
固きカラーに擦れし咽喉輪のくれないのさらばとは永久(とは)に男のことば  塚本邦雄
性別(ジェンダー)の領分を知らず生きこしを透れる月のひかりにおもふ  春日井建
日だまりの動物園のライオンがめすライオンのなかに出すまで  斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』
水族館(アクアリウム)にタカアシガニを見てゐしはいつしか誰かの子を生む器  坂井修一『ラビュリントスの日々』
ベビーカーの親子
JR大阪のエレベーターは
みつかりましたか。  今橋愛

『ねむらない樹vol.4』

『カミーユ』という歌集がジェンダーを扱っているらしく、このタイトルはロダンの弟子であった「カミーユ・クローデル」だろう。イザベル・アジャーニの映画で有名だから女性だと芸術家として社会的にチャンスがない。むしろ愛人としてその立場を貶められていく。これなんか高村光太郎と智恵子の関係を思うのだが、そういう歌もあるのか、ちょっと興味を引く歌集ではあるな。掲載歌は、チンギス・ハーンの皆殺しで女は性奴隷として対処される。「紫陽花」は「桜」とは対称的にうたにはなりにくい花だった。
春日井建の歌は、80年代に出た最初の頃の「ジェンダー」短歌だという。春日井建はゲイであったようでセクシャル・マイノリティーとしての歌のようでもある。
斉藤斎藤は男の存在が先立って、女の存在は雌として認識されるというわかりやすい歌。女性歌人とか女流歌人とか。男性歌人とは言わない。「なかに出すまで」が露骨な表現だった。

学校教育は軍隊から始まったという前提があり、女子はそのなかで貞操教育がなされたということが、女子だけに性教育は施されるという日本の後進化を示しているのだろう。
俵万智の歌は時代遅れの歌としてのジェンダー短歌。こういう歌が今もあるんだよな。
水原紫苑の短歌はアンチ俵万智の系譜で、林あまりからの系譜だと思うのだが、ここでは生みだすのが子供じゃなく作品となっているところのジェンダー観。芸術観と言ってもいいのかも。
今橋愛の歌は、それまで女性歌人は女性としてのジェンダーで読まれてしまうのだが、40過ぎるとそんな問題もなくなるというのを、解放されたと詠むのだろうな。
短歌の美意識が戦争の死と深く結びついているおとこ歌の系譜がある。それの批判というよりこの歌も美意識を歌ったものだと。この短歌にはホモセクシャル的なものを含んでいる。そして腐女子と呼ばれる女性たちはこういう世界に喰いつのだった。
坂井修一の歌は女性の「ジェンダー」を「産む機械」として捉えた社会通念の歌だと思うが、男が無理して作るとこんなもんかもしれない。
今橋愛のニ首目だが、これは男女関係ないとは思うが子育てしている者でないと見えない視点だった。それだけ都市というものが男性中心に作られていると気付かされる歌で、今回はこの人が一番鋭いかなと。観念じゃなく身体的なこと(苦痛)の発露だよね。

寺井龍哉「されど われらが批評――」、「短歌と二人の作家――佐藤泰志と村上春樹」

短歌が詠まれているが読まれていないという。これは「批評の不在」としてしばしば目にする意見だ。例えば佐々木幸綱『歌壇のカラオケ状態は終わったか』(角川『短歌 1999年1月号』)から状況は変化しているという。価値観の多様性により「不在」と感じてしまうのは、批評の言葉が長すぎてネット媒体には合わないということらしい。作品の良さを伝える言葉は単純にいいねやスキで示される現状は、書評媒体の批評とは相容れない世界なのかもしれない。そこから自分好きな短歌をどう他者に伝えていくが問われているという。

短歌の読みの世界は特殊だと感じてしまうのだが、批評はそういう手がかりは与えてくれるとは思う。ただ好き好きの志向は人それぞれなのだが、例えば「短歌と二人の作家――佐藤泰志と村上春樹」と二人の作家を比べた場合、私は断然、佐藤泰志の方が好きなのだが、この論評の二人の作家による短歌の視点が面白かった。ジャズ喫茶のことも絡めて興味深い話で、村上春樹の短歌は口語現代短歌のようでライトヴァースなのだが、佐藤泰志の短歌は文語で玄人受けがするような短歌なのだ。その佐藤泰志を発掘して本に出したいという、ちょっと期待してしまう。






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