老人はもう眠ったほうがいい樹なんだろか?
『短歌ムック ねむらない樹 vol.1』
「眠らない樹」というのは、笹井宏之の短歌から来ているようだ。
イメージしては孤独な歌人の歌の夢が見知らぬ読者(あなた)に手渡す歌の種という相聞歌だろうか。その関係性があわい恋のようで、夭折した歌人の言霊を後世に伝えたいという気持ちが籠もっているネーミングだと思う。
創刊号は、それぞれの人の思いがこもっているから読み応えはある。一番面白かったのは、特集「ニューウェーブ30年」の対談かな。
ニューウェイブが対談者4人だけの秘密結社のようでもあり、それが前世代の「前衛短歌」を継承したものであるというのは、アメリカ資本主義的なライトバース(俵万智から始まる口語現代短歌)に対抗しようとするビン・ラディンのアルカイダのようでもあり(例えとして)、それが原理主義的になっていくのか?ライトバースに飲み込まれてしまうのか、現代短歌の趨勢はライトバースに飲まれつつあるのだろうなと感じてしまう。
ただその中に短歌がネット世代に受け入れられた分の歌人間の格差社会はあるんだろうな、と遠目に見ているけどプロの歌人も大変なんだろうなと思ったり。
そんな中で笹井宏之という夭折した歌に対する純真さの歌人がいたことがまた希望の星のように輝いているのかとも思う。
ニューウェイブに女性が入らないというのは、ある部分原理主義的なものがあり、それは女性の身体的なものとは対極の精神性みたいなものがあるからで、まあ仲間意識というか、女の子は争いの元になるので入れたくないというのはわかるような。
林あまりと東直子の対談は、主に林あまりの歌人としてのデビューの仕方の背景的なところで面白かった。「鳩よ!」だったのか。短歌というより詩全般の雑誌で何回か買ったことはあったが軽すぎる(それこそライトバース)でのめり込むことは出来なかった。
林あまりが寺山修司のように短歌界だけではなくマルチに広げていってのかもしれない。それは俵万智の短歌は主流になりつつあるけど、林あまりはまだまだ異端なんだろうなと感じた。でもすでに大御所感があるのは、穂村弘と林直子の二人の歌人を世に出したのが彼女だと知って、けっこう驚いている。
穂村弘のネガティブさよりも今は肯定することの短歌が流行っているのも、保守的な流れなんだろうと思う。それは前衛短歌が原理主義的に根本にこだわるあまり、本流にはなれなかった。その中でライトバースの風潮は今の時代と合っているのかもしれない。そこそこ短歌を詠めてそこそこ生活できればその生活を守りたいと思うのが、日本人の心情とマッチするのだろう。
その時他者をどう受け入れるか、外国語の短歌や外国人の歌人が出てくるのだろうか?小説ではすでに出てきているが短歌の世界ではそういう人は知らない。どこまでも内輪だけで行くのか、今後の短歌界に期待するが、今は他のアートとのコラボが流行りでいろいろ出口は探っているのだとは思う。
井波真人と滝口悠生の対談も歌人と小説家の違いを伺えておもしろかった。滝口悠生は今の場所にやはりある程度不満があるのだが、井波真人はその世界を肯定しようと思考する。それが短歌にも現れているのだろう。
滝口悠生がなんでも言葉を突っ込もうとするのに対して、井波真人は冷静に言葉を切り捨てていく。それはある諦念を感じさせるのだ。
線路を眺め、小説家はそこから旅を想像するが、歌人はその線路が世界とつながっていることを想像するだけで満足する。そして歌人のいる足元の世界を大切にするという。そのお互いの世界をあまり侵食しない距離の中で認め合って行きていこうという姿勢なのかな。この世界に息苦しさとか感じないのだろうかとも思うけど。
作品については、『角川 短歌』に出ている方が良かったような気がする(年の功だろうか?)「現代短歌100」にしても、なんだろうあまり作家による区別が付けられなくて。確かにいい歌もあるのだが。
その中で写真とのコラボ短歌は新鮮な感じがした。これはただ文字だけよりもイメージとして入ってくるものが大きいのかもしれない。ネットでも写真を使った短歌の方が見栄えもいいし輝いているように見える。
短歌そのものが良かったのは木下龍也の言葉が他の歌人とは違うインパクトがあったような。
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