アジア人物史3における唐の歴史

わが国が中国の影響を受けているという意味で、唐(618-907)の存在は大きいが、学校の歴史で習ったことは、極めて表面的に遣唐使による仏教文化伝来や平城京、平安京という日本を通しての理解でしかなかった。
第1章は、いきなり武則天(624-705)が中国唯一の女性皇帝でしかも、唐が2つの時代に分かれていて、間に周という国であったのだというから驚きである。確かに、則天武后という名前は聞いたことがあるが、唐の歴史では、あくまで皇后として位置づけて、皇帝としては認めていないということなのだ。同時期に、日本では多くの女帝が誕生しており、現在も議論になっている男女共同参画問題を思う。武則天の大雲寺が日本の国分寺の範例となった(p.36)と言われ、同時代現象として東アジアに女帝が多く生まれた背景として、仏教の王権論にもとづく政権樹立があるという。(p.40)儒教は男性中心の哲学で対称を良しとするのに対し、武則天の造った洛陽は非対称の都市構造で、それが平城京にも現れている(p.43)とか、倭国を日本と呼んで良いとしたという意味で、日本のゴッドマザーだという話も、日本の歴史にとって大きなことだ。
第2章では玄奘(602-664)がもたらした仏教の大きな展開が語られる。627年に命がけで密出国した後、西国を巡った後に645年長安に無事帰国。649年「般若心経」を翻訳している。4歳年上であるが、道宣(596-667)は、唐招提寺を総本山とする律宗の高祖(鑑真は宗祖)で、玄奘の仏教典の訳場に参じており、多くの著作を残している。まさに、唐時代の仏教がわが国の仏教文化の基であって、多くの先人の命がけの旅がそれを現実のものにしたということだ。
東アジア仏教の基調を築いた筆頭としては、新羅の元暁(617-686)が、第3章で登場する。「言葉を離れた真理の世界である『心真如門』と、現実の変動する世界である『心生滅門』が有るとし、後者において、如来蔵に基づいて存在する生滅心は不生不滅のあり方と生滅するあり方とが融合したものであり、それを『阿頼耶識』と名づけると述べ、それまでの諸説を統合していた。」(p.162)東大の建築構造の梅村魁(1918-1995)の作ったサロン阿頼耶識の説明になる。鈴木大拙(1870-1966)の最初の著書が「大乗起信論」であり、それは西洋哲学に対抗できる東洋の英知とみなされ、玄暁の功績であるという。
さらに第4章では道慈(670-744)が筆頭に挙げられ、国分寺国分尼寺事業展開など政治にも深くかかわっている。日本書紀における仏法関連記事は、道慈による執筆と推察している。その後に、行基(668-749)、鑑真(688-763)、最澄(766-822)、空海(774-835)、円仁(794-864)といった多くの優れた人たちが仏教を受容し説いていった。
第5章はチベットである。唐からは吐蕃と呼ばれ、遊牧国家の軍事組織と農耕の持続可能体制を合わせもっていたという。もちろん、仏教とのかかわりは深い。
第6章は突厥とソグド人。トニュクク(?-725)の時代には、ウズベキスタンあたりまで含む唐を脅かす存在だったようである。そして安禄山(703-757)の登場である。そもそも安や康という姓は中央アジアのソグド人の中国名で、安はブハラ、康はサマルカンド出身という。今のウズベキスタンに繋がる歴史が興味を引く。安禄山による反乱はさらに盟友の史思明に引き継がれ、一時期の唐の時代を不穏にさせる。安史の乱ともいう。
第7章で八世紀の世界文学として語られるのは杜甫(712-770)である。思索する表現者として評価が高い。李白(701-762)も中国全土を遍歴し、杜甫という好敵手の存在が、すばらしい作品の制作に繋がった。李白は作品を典型化し、杜甫は個別の事情を作品に刻み込むリアリズムという対照が見られる。孟浩然(689-740)や王維(699-761)も同時代、やや先輩の詩人である。
その唐の破壊者として登場するのが第8章の黄巣(?-884)である。塩などの専売制の地域による違い(藩鎮の四類型)が、黄巣の反乱とからんでいる。塩密売の取り締まりを厳しくすることが経済を疲弊させたりしている。黄巣以後の議論として「賢明な地方官を選んで農業を振興させれば数年の間に倉庫は自然と満たされるでしょう」という記述が「資治通鑑」にある。(p.466)朱全忠(852-912)は後梁の太祖であるが、黄巣の軍勢に身を投じ、最後は唐を滅ぼした裏切り者とされているが、評価は不十分で、女性の社会的機能の生かすなどの新しいシステム導入の役割も果たしている。
第9章は東南アジアの初期国家の展開で、アンコールやジャワにおける王国の盛衰が語られる。ジャワにおいてはサンジャヤ(在位717-746)がヒンドゥー王国を出現させた。シャイレーンドラ王国の威光がボロブドゥールに残る。義浄(635-731)は第3章にも現れるが、東南アジアを巡って、サンスクリット語の仏典を持ち帰り漢訳している。武則天に歓迎され、三蔵法師の称号を与えられた。ジャヤヴァルマン2世(在位802-834)は、古代カンボジアでアンコール朝を創始した。
第10章は、もう一つの帝国はアッバース朝である。北アフリカからウズベキスタンまでのイスラム帝国である。マアムーン(786-833)の時代がカリフの位を巡る内戦から、政治・軍事・社会において大きな変革期であったという。アラブ・イスラム文化にギリシア科学・哲学の流入に貢献した。(p.556)ブハラが150年ほどにわたり、文化の中心として学者ブハーリー(810-870)や哲学者・医者のイブン・スィーナー(980-1037)が活躍する。ファーラービー(870-950)は、アリストテレスに次ぐ「第二の師」と言われ、バクダードで学び、ダマスカスで死去したというが、生まれはシル・ダリア河畔というから、ウズベキスタン恐るべし。
第11章は契丹国。キャセイの名はキタイに由来するという。耶律阿保機(872-926)が契丹族を統一したという。安禄山の乱により弱った唐に契丹を実効支配する力がなかった。景宗(948-982)の時代、中国は北宋になっているが、仏教信仰に深く、長男に文殊奴(聖宗(971-1031)次男に普賢奴、四男に薬師奴という菩薩の名を付けている。
第12章は、朝鮮半島に高麗を建国した王建(877-943)。7世紀後半に三国(新羅、高句麗、百済)を統一した新羅の中で、後百済、高麗が豪族あがりで台頭し、やがて高麗王朝として統一される。そして、南北朝鮮の学界が、高麗王朝を朝鮮半島における初の統一国家と認めたというのだ。王建は即位した918年に、八関会(仏を供養し神を喜ばせる法会)を開催したという。弓裔(クンイエ)(?- 918)は第47代新羅王の子とも、第48代新羅王の子ともいわれるが、新羅から高麗を建国した。王建が一時身を寄せたという。時に残忍が振舞もしつつ、晩年には弥勒仏を自称したという。中国、朝鮮、日本の当時の政治においては、実に仏教によるところ絶大であった。そしてその仏教哲学が東洋の文化の根源にもなっている。

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