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#24' 梅雨間夏在('23.6.18)

 今年の梅雨は梅雨らしい梅雨だなあなどと呑気なことを考えていたら、雨が上がった途端に気温はいきなり30℃、身体がついていけず軽い熱中症のようになってしまった。子供の頃、こういうのをばあちゃんが「熱(イキ)りが引っ込んだ」と言っていたっけ。当時は意味が分からなかったけれど、熱が体の中にこもってしまったというような意味だったのかな?ヘソに梅干しを当てておくといいと言われたような気がするけど、ヘソも梅干しも違ってるかもしれない。
 公私ともに一段落したので、山あいの小さな城下町までちょっとドライブ。街中の空き店舗を改装したセレクトショップでスペシャルなコーヒー豆を、ナビがなければ絶対辿り着けない古民家を改装したブーランジェリーで美味しそうなパンを買ってきた。最近、若い人たちが地方でお金をかけずに素敵なお店を始めることが増えているような気がする。そういう形で落ち着いた暮らしを紡いでいけるといいなあと思う。ほんとに微力だけど応援したい。
 今日、旧暦5月の月が立った。今年は閏月があったので、その分暦の進みが遅い。夏に向けて、玄関の絵をアネモネから向日葵に、和室の焼き物を黄瀬戸から青磁に、書斎の軸を麦から夜釣りに換えた。以前、100円玉貯金が100枚貯まった時にたまたまヤフオクを見たら、若い頃に共感を覚えたB.ビュッフェの小品が入手できた。以来、小銭が貯まったら気に入ったものを落札するというのを数年続けた。後になって、あれは面倒な部長に対するストレス解消の代償行為だったんだなと気付いた。今はもう落ち着いて、手元に残ったコレクション?はどれも安物だけど、それでも季節で模様を変えていくのは悪くない。
 明治の頃の小説を読んでいると、どこの家でも掛け軸を飾る習慣があって、それ用に軸を担いで家々を廻る商人もいたようだ。それなりの需要があったから、「これ位描けていれば抱一を名乗っても恥ずかしくない」みたいな表現もあって、ある程度贋作と知りながら絵そのものを楽しむようなところがあったのかもしれない。今は美術と言えば美術館で鑑賞するものというイメージがあるけれど(その一方で投資の対象としてのアートとか)、手の届く範囲で暮らしの中で楽しむというのも、日々に潤いを与える一つの方法なのかなと思う。手元にも誰が描いたか分からない抱一が一幅あって、毎年秋になると飽かず眺めている。
 

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