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9 Radio Days

 お年玉とかをかき集めてゼネラル(!)のトランジスタラジオを買ったのは小学校5年のときだった。5割引きで5,500円だったと思う。少し前まで1週間の番組を暗記していたのに、その頃何となくテレビに興味をなくしていた私は、無意識のうちに新しい何かを求めていたのかもしれない。
 初めて触れる電波の世界は新鮮だった。後にニュ-ミュ-ジックと呼ばれるようになる音楽がちょうど生まれた頃で、吉田拓郎の「結婚しようよ」がよくかかっていた。当時、その手の曲はテレビでは流れなかったので(井上陽水は出演を硬く拒んでいた)、ラジオを聴く者だけが知っているという、ちょっとした選民感覚が少年の自意識をくすぐった。
 衝撃的だったのは、海外Popsとの出会いだった。「歌謡ベストテン」を聴こうと少し早めにスイッチを入れると、いつも「Popsベストテン」が終わるところだった。ある日、別の番組で小耳にはさんだミッシェル・ポルナレフの「グロリア」がひょっとしたら聴けるのではと、45分早くスイッチをひねってみたら、なんとそこには宝の山が広がっていたのだ!
 お目当ての「グロリア」は9位だった。エルトン・ジョンの「ダニエル」が2位か3位。カ-ペンタ-ズの曲もあったかもしれない。それらは、言葉は勿論、曲調や多分それを形作っている考え方も含めて、自分がそれまで知っていた日本の歌謡曲とは全く違う、遠い海の向こうの世界を髣髴とさせた。
 Early '70sには、まだビ-トルズの余熱が残っていた。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの曲は、それぞれにソロとしてベストテン入りを果していたけれど、その4人が、ヒットチャ-トには昇ってこないのに、やたらイカす曲がいろいろ流れる「ビ-トルズ」というグル-プのメンバ-だったことを知ったのは、しばらく経ってからのことだった。
 初めて出したリクエスト葉書は、アメリカの「金色の髪の少女」だったと思う。イントロのアコ-スティックな3コ-ドが印象的な曲だった。放送で読まれたという知らせは、翌日の教室で前の席の女の子からもたらされた。たぶんよくあることなのだが、その時に限って聴いていなかったのだ。好きな娘に曲をプレゼントしようなどと考える割には、結局イニシャルを書く位が関の山だった。
 春から秋にかけてはイヤなシ-ズンだった。ナイタ-の放送で、番組がよく中止や変更になったからだ。まだビ-ルが飲めなかったので、ナイタ-にも興味が持てなかったのだ。その点、冬はよかった。毎年、10回シリ-ズでいろいろなグル-プのヒストリ-番組が組まれた。冬の夜は空気が澄むのか、心なしか電波もクリアで、皆が寝静まった頃、布団にくるまってチュ-ニングを合わせるのは幸せな作業だった。
 ロバ-タ・フラックの「やさしく歌って」、カ-リ-・サイモンの「うつろな愛」、リンゴ・スタ-の「思い出のフォトグラフ」、グラディスナイト&ザ・ピップスの「夜汽車よジョ-ジアへ」等々。あの頃、音楽も世の中もまだ今よりずっとシンプルで、0と1だけでは表現出来ないぬくもりが、空を渡って田舎の少年にも分け隔てなく降り注いでいた。

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