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春を送る

 せっかくの爽やかな季節に恐縮だが、このところ何となく気分が今一つスッキリしない。桜も散って山は笑い、既にハナミズキが咲いているというのに、である。蓑虫だって、もう蛾になって外を飛び回っていることだろう(蓑虫って、蛾になるのはオスだけで、メスはずっと蓑の中にいるって知ってました?)。自分の機嫌くらい自分でって、ああ、あれは自分の感受性くらいか、失礼しました。でも、偶にグダグダしたい時もあるじゃないですか、人間だもの(いつもか?)。
 ひょっとして暇すぎるのか?小人閑居して不善を為す。中学の時、生徒がどこぞの柿を失敬したとかで学校に苦情が入り、朝礼で年配の女性教師から厳しく指導された。内心、柿の一つや二つと思ったけれど勿論口には出さなかった。その時に覚えた覚えた言葉だけれど、以来、暇に任せてろくでもないことをするたびにこの言葉を思い出す。きっと先生も本望だろう。
 以前「白い一日」にも書いたのだが、基本的に私は先行逃げ切り型の人間だ。やるべきことはサッサと済ませてのんびりしたいタイプ。義務優先で生きていると言ってもいい。でも、世の中は上手く出来たもので、一つ片付けば次がやってきてなかなか暇にはならない。鴎外も何かに書いていたように、日本人は学校時代を懸命に駆け抜け、職業に就けばその職業を成し遂げてしまおうとして、その先に生活があると思っている。でも、ご承知の通りそこに生活はない、人生とは今のことなのだ。と分かっていながらの堂々巡り、人生は巡るメリーゴーランド?
 もはや暇なのか忙しいのか意味不明、多分私は飽いているのだ。ずっと体調がスッキリしないこともあって、客観的に見れば恵まれた環境にいながら、その状況に飽いている。体調を整えるのも自分に刺激を与えるのも自分次第だ、分かっている。分かっていながらダラダラしている。そう言えば小学校に入学したての頃、遅刻すると分かっていながらテレビを観ていた時期があった。何度かギリギリのスリル?を味わった後、決定的に遅刻した朝、遅れて一人教室に入る恥ずかしさを体験してその遊び?は終わった。半世紀も経って還暦も過ぎたというのに、私はまた同じ遊びをしているのだろうか?まあいい、その内きっとまた恥ずかしい経験をして目が覚めるのだろう。それまでは、ぼんやりと行く春を眺めていることにしよう。春に憂いを感じるのが詩心というものなのだよ、とか嘯(うそぶ)きながら…。

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