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1 ソニー・ロリンズの思い出

 そのチケットがどういう経緯で自分に回ってきたのか、今となってはもう思い出せない。とにかく、手元に来たのはライブの当日とか、せいぜい前日の夜とか。
 ソニー・ロリンズ コンサート、会場は新宿厚生年金会館だった。

 当時、持っていたアルバムは1枚。MJQと共演した黄色いジャケットのレコードで、自分が生まれる前に録音されていた。確か、野田秀樹が「ジャズはシカメっ面をして聴くものと抵抗があったけど、ソニー・ロリンズの"on a slowboat to China"を聴いたら自然に体が揺れた」というようなことを何処かに書いているのを読んで探したのだ。アルバムの最後の曲には、マイルス・デイビスがピアノでクレジットされている。ピアニストが録音中に用事で帰ってしまったらしい。のどかな時代だ。

 当日の朝、手元にある2枚のチケットをしばらく眺めてから、当時ちょっと気になっていた女の子に電話をかけてみた。その娘に電話をするのは初めてで、本人が電話に出る確率は1/2だった。やっぱり別の人が出て、その後代わった彼女は「ごめんなさい」と言った。「今日はとても疲れているの」と。それはそうだ。たまの休みの当日の朝に、いきなりライブに行こうと言われても困る。勿論残念だったけれど、無理をせずに本音を伝えてくれた距離感がうれしかった。切り際に「また誘ってね」と彼女が言ったのは、社交辞令だけというわけでもなかったと思う。そういう娘ではなかったし、その話し方には素直な気持ちが感じられたから。

 隣が空席のまま、ライブは始まった。何の装飾もないステージに、よれよれの黄色いTシャツとジーンズという格好で現れた彼は、1本のシンプルなスポットを浴びて演奏を始めた。結局その日"slowboat"を演ったのかどうか、これまた記憶はあいまいだ。余分なものをそぎ落としたカッコよさだけが、強く脳裏に刻みこまれた。

 ライブが終わって外に出てみると、意外にも外はまだ明るかった。会場が暗かったので、時間の感覚が狂っていたのだ。人ごみに流されながら新宿駅の近くまで来て、ふと思いついてDugの階段を降りた。当時、紀伊国屋書店の裏地下にあったジャズ喫茶で、これは村上春樹の何かを読んで知った店だった。
 特にすることもなく、小瓶のビールを1本飲んで部屋に帰った。

 その後、彼女とライブに行く機会は訪れなかった。

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