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5 A分校のこと

 その分校は、川を隔てた二つの集落の丁度真ん中あたりにあった。
 校舎は木造の平屋建てで、渡り廊下でトイレの棟と給食室につながっていた。部屋は大きくわけて4つ。1、2年の教室が一つずつ。職員室は放送室と購買部を兼ね、隣には保健室と宿直室の役目を果たすベッドがあった。最後の1部屋は音楽室兼視聴覚教室兼図書室兼講堂として使われていた。
 そこに通う生徒は、各学年15、6人ずつで合わせて30人位。それに学年ごとの担任の先生が一人ずつと給食おばさんが一人。
 朝、玄関の鍵は給食おばさんが開けてくれた。先に着いたときには、ブランコを漕ぎながらおばさんを待った。目一杯漕いだブランコのピ-クで東の方を見ると、おばさんがみんなと手をつないで歩いてくるのが見えた。
 正面玄関は別にあって、先生が開け閉めしていた。工作のある日は、購買部(といっても小さい戸棚が一つあるだけだったが)で材料を買うために、みんな並んで先生の来るのを待っていた。先生が販売員でもあったからだ。
 授業の始まる前は勿論、昼休みも、暇さえあれば私たちはドッヂボ-ルをしていた。少ない人数だったので、組分けをするジャンケン相手も決まっていて、たまに休む者がいたりすると、この二人では力が釣り合わないよと揉めるほどだった。強いボ-ルでどんどん相手を外野に追いやるM君と、その強いボ-ルをドンと胸で受け止めるK君が両軍の雄だった。始業を告げるベルに雀が巣を作り、ベルが聞こえないのをいいことにゲ-ムに熱中していて叱られたこともあった。
 面白かったのは雪の日だ。白い雪の上に、みんなで並んで足を引きずりながらコ-トの線を描いたはいいが、ボ-ルが全然転がらない。転がるうちに雪だるまになってしまう。それでも、誰もドッヂボ-ル以外の遊びをやろうなどとは思いもよらなかった。
 分校での授業は、非常に独創的かつ創造的なものだった。
 国語では主に作文と劇の練習をした。作文の内容は自由だったが、書き出す前に、どういう内容をどういう順序で書くつもりなのかという構成のチェックを受けなければならなかった。それが通らないと書き出せないのだ。意図を明確にして文章を書く練習だったのだろう。(勿論、その当時そんなことは分かるはずもないのだが)なにしろ、来る日も来る日も書いていたからその量は相当なもので、2年生のときには、四百字詰め原稿用紙の厚い束が2冊になった。作品には先生がそれぞれAとかBとかの評価をつけてくれた。また、面白い表現の箇所には赤いペンで波線を引いてくれたので、私たちはそれを目指して頭をひねったものだ。ただ、赤い波線の部分は何故か家族には不評なことが多かった。外に出ては恥ずかしいようなことがそのまま書かれていたからだ。「おばあちゃんは”クソのたしにもなんねエ!”と僕たちを叱ります」とか。同時に、胸の内を他の人に見せることは、自分にとっても何となく恥ずかしい思いがしたことを覚えている。あれから30年近く経つが、私の文章能力と文章に対する態度は、基本的にあの頃のままのような気がする。
 一番好きだったのは音楽だった。
 音楽の授業では、いや、音楽の授業でも、本来の教科書はほとんど使われなかった。私たちは、主に先生がどこからか手にいれてきた5年生や6年生用の教科書に載っている曲の合奏や合唱を練習した。分校には本校にもないマリンバやビブラフォンなどがあって、主にビブラフォンを担当していた私は、スケーターズワルツのメロディーラインを弾くのがちょっと得意だった。最も難曲で且つ私たちが自慢にしていたのは、ブルーコメッツのブルーシャトーだった。当時大ヒットしたこの曲は、勿論教科書に載っているはずもなく、私たちは、先生が大きな模造紙に書いた楽譜で練習を進めた。その楽譜は、長い黒板の端から端まででもまだ足りず、何回か貼り直す程の超大作だった。
 こうして練習した劇や合奏を発表する場が、年に1、2回設けられていた。言わば学芸会のようなその会を何と呼んでいたのかは思い出せないが、その様子や雰囲気は良く覚えている。その日は、4つの機能を持つ教室の机が取り払われ、講堂として使われる日だった。招待された親や教頭先生の前で、私たちは少し緊張しながら、でも誇らしげにプログラムをこなしていった。最後には、MVPならぬいろいろな賞の発表があって、各々が”まじめまじめの殊勲賞”とか”努力努力の敢闘賞”とかいった賞品の袋をもらうことができた。中には、鉛筆やノ-トや折り紙などが入っていたように思う。たぶん購買部の利益還元か在庫整理だったのだろう。
 その他で印象に残っているのは野外授業だ。季節の変わり目には、植物や昆虫の観察のために、私たちは近くの林に出掛けたりした。校庭の桜の木にアメリカシロシトリが発生したときは、みんなで筋だけになった葉っぱを拾い集めたこともある。一番楽しかったのは、河原での授業だ。1年生は昆虫採集、2年生は風景の写生だった。草原でバッタを追いかける1年生を横目に、遠くに見える青い山の稜線をどう描こうか苦労したのを覚えている。お昼近くになると、給食おばさんが自転車にパンや牛乳を積んでやって来てくれた。堤防の上で、私たちは、手を振りながら幸せな時間の訪れを待っていた。

 その後、生徒の減少とともに分校は廃校になり、今ではその校舎が工場として使われているらしい。


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