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金曜note '22

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’22年3月から’23年3月まで、毎週金曜日にupしたnoteの記事です。還暦記念にまとめた、いったり来たりの呑気な自己紹介?
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記事一覧

1 ソニー・ロリンズの思い出

 そのチケットがどういう経緯で自分に回ってきたのか、今となってはもう思い出せない。とにかく、手元に来たのはライブの当日とか、せいぜい前日の夜とか。  ソニー・ロリンズ コンサート、会場は新宿厚生年金会館だった。  当時、持っていたアルバムは1枚。MJQと共演した黄色いジャケットのレコードで、自分が生まれる前に録音されていた。確か、野田秀樹が「ジャズはシカメっ面をして聴くものと抵抗があったけど、ソニー・ロリンズの"on a slowboat to China"を聴いたら自然に

2 Innocent Cruelty

 私の通った幼稚園はお寺だった。  今では「町」になり(その後「市」になって)公立の幼稚園ができているが、当時はお寺の本堂が園舎だった。ひょっとすると今とは幼稚園の制度が違ったのかもしれない。  本堂なので、当然真ん中にはド-ンとご本尊だった。私たちは、その仏様に見守られながら、お絵描きをしたりお昼寝をしたりしていた。お遊戯をするとき、ピンと延ばしたY先生の指の反りがとてもきれいで、私は密かにそれを真似できないものかと心を砕いていた。M先生の紙芝居は抑揚の効いた語りが子供心を

3 休講もしくは私(たち)の位置

 学生の頃、私が属していた学科は比較的メジャーで(進級が楽で)、一学年25人位の同級生がいた。彼らは、講義への態度により大きく二つに分けることができた。真面目にゼミに取り組み、主に院を目指すグル-プと、全く学校に顔を出さないグル-プの二つだ。  そして多分、私はそのどちらにも属していなかった。前者の会話と付き合いは、なんとなく英会話や演劇の練習のように気恥ずかしく、団体行動の苦手な私向きではなかったし、かといって、雀荘に入り浸る忍耐力も他人のノートを解読する趣味も、私は持ち合

4 It's too late

「踊ろうか」と誘ってくれたのは彼女の方だった。 それは彼女の結婚式の二次会で、時刻はもういい加減訳のわからないカラオケ大会に突入していて、誰かがスローな曲を歌いだして、会場がにわかにチークタイムになった時だった。照明が絞られたフロアで揺れながら、僕たちは、数分の間に一体何を話したのだろう?覚えているのは、背中に回した腕から伝わってきた「こんなに華奢だったのか」という驚きのような感慨…。  彼女が結婚するらしいというニュースはショックだった。頭をハンマーで殴られたような感じ。

5 A分校のこと

 その分校は、川を隔てた二つの集落の丁度真ん中あたりにあった。  校舎は木造の平屋建てで、渡り廊下でトイレの棟と給食室につながっていた。部屋は大きくわけて4つ。1、2年の教室が一つずつ。職員室は放送室と購買部を兼ね、隣には保健室と宿直室の役目を果たすベッドがあった。最後の1部屋は音楽室兼視聴覚教室兼図書室兼講堂として使われていた。  そこに通う生徒は、各学年15、6人ずつで合わせて30人位。それに学年ごとの担任の先生が一人ずつと給食おばさんが一人。  朝、玄関の鍵は給食おばさ

6 夜の音

 それは北東の角部屋だった。  もともと、人が暮らすというよりは納戸のようなものだったのだろう。箪笥や布団などを置いた板の間の他に、畳の部分は3畳かそこらしかなかった。北側なので陽は差さないし、すきま風も入って冬は当然寒い。なのに何故か居心地がいいのである。  私は、受験のひと冬をそこで過ごした。電気炬燵を据え、布団を敷き、眠るときには炬燵に足を入れたまま毛布を被った。不思議に風邪はひかなかった。  勉強に疲れると、よくゴロンと横になったままボォ~っとして時を送った。家の裏に

7 余は如何にして考えることを止めし乎(橋本治風?)

 前略;大変そうですが元気ですか?  頭が整理できそうもないのでワープロで打ちます  内容がバラバラ飛ぶと思いますがご了承を  要は、いろいろと考えるということについてですがと…  中学の頃、眠ろうとするといろんな言葉がブンブンとハエのように飛びまわって、うるさくて仕方ないのでそれをノートに書きつけたと、それが私の悩みの始まり….  それ以来、「俺はみんなとはちがう」とか密かに思いながら、たぶんみんなと同じようにブツブツ言っていたら、「カッコワルイ!」と言われたかどうか

8 オクラホマミキサー

 多分この辺りだなと思いながら、まっすぐそこには向かわずに、周りをうろうろしてから、核心を最後に残すというようなことがないだろうか?私にはその癖がある。例えば釣りをしているとき、いかにも獲物がいそうな淵は後回しにする。可能性の低そうなところから試していき、最後にそこに向かう。いそうなところから当たればよさそうなものだが、そうしないのは、単純に楽しみを最後に残しておきたいからなのだろうか?それだけではない気もするが、ともかくそうした癖は時に思わぬ喜悲劇を招く。  クラス会は2

9 Radio Days

 お年玉とかをかき集めてゼネラル(!)のトランジスタラジオを買ったのは小学校5年のときだった。5割引きで5,500円だったと思う。少し前まで1週間の番組を暗記していたのに、その頃何となくテレビに興味をなくしていた私は、無意識のうちに新しい何かを求めていたのかもしれない。  初めて触れる電波の世界は新鮮だった。後にニュ-ミュ-ジックと呼ばれるようになる音楽がちょうど生まれた頃で、吉田拓郎の「結婚しようよ」がよくかかっていた。当時、その手の曲はテレビでは流れなかったので(井上陽水

10 青春の影

  車は第三京浜を走っていた   季節は6月   梅雨入り前の湿った雲が低く広がる午後   その頃、僕は仕事が難しいことになっていて   一人で車を運転しているときが   唯一いろいろなプレッシャーから解放される時間だった                                         何気なくFMのスイッチを入れたとき   流れてきたのはチューリップの「青春の影」だった   ビートルズの「ロングアンドワインディングロード」を   彷彿とさせるその曲は、自

11 美味しいジントニックのための6条件

 ジントニックというのは、夕方に喉を漱ぐ飲み物であると誰かが書いているのを読んだことがある。  その頃私は余所の会社に勉強に出ていて、残念ながら(?)大抵定刻に事務所を後にしていた。かといって真っ直ぐ寮に帰っても何のあてもなく、いきおいブラブラと街を彷徨うことも多かった。新聞社の裏手に位置するそのバ-は、大正年間の創業という老舗で、立ち飲み用のカウンタ-がL字に据えられたシックな店だった。もともと童顔でまだ20代半ばだった私にはちょっと荷の重い店だったが、精一杯背伸びをしなが

12 スカボローフェア

 初めて女の子と二人でデートしたのは、確か高校1年の時だった。観に行った映画は、当時リバイバルで上映されていた「卒業」。ダスティン・ホフマン演じるベンジャミンが、最後に教会で「エレ~イン!」と叫ぶあの映画だ。  そこにたどり着くまでには、今ではおよそ想像もつかないような苦難があった。彼女は中学の同級生で、3年間9学期の内、実に6学期を半ば意識的に前後左右の席で過ごした仲だった。卒業を機にお互いの気持ちを打ち明けて、そこまではバラ色だったのだけれど、放っておいても毎日顔を合わせ

13 最終講義

 大学に入って驚いたのは、大学にもクラスがあることだった。それは第二外国語によって分けられ、代々脈々とつながっているらしかった。春には、世話好きな先輩がオリエンテ-ションまでしてくれる。この講義は楽勝だとか、あの教授は厳しいだとか。みんな仲良くがんばろ~みたいな。勘弁してよという感じだった。  その講義は土曜の一限にあった。ただでさえ面倒な時間な上に、先輩の有り難い情報によれば、けっこう試験が厳しいということだったので、当然受講生は少なかった。私がその講義を取ったのは、テーマ

14 木造モルタル二階建て

 初めて一人暮らしを始めた時、住む場所は駅名で決めた。「寺」の字が入っていたので、きっと静かなところだろうと。アパートは、最初に見つけた不動産屋で、一軒目に見た物件にしようと思っていた。こういうことは巡り合わせ、時の運だ。  改札を抜けて階段を降りると左右に道路が通って、正面に細い路地が伸びていた。その路地を進むと右手に更に細い路地があって、左側に見過ごしそうな狭くて古い不動産屋。物件の貼り紙を見ると、6畳一間18,000円の文字。これだ!紹介を受けて下見に向かうと、閑静な住