(長編童話)ダンボールの野良猫(十八・二)
(十八・二)不完全猫的再生症候群
「そう、がっかりなさらず」
励ます早川に、不貞腐れるばかりの響子。
「がっかりもするわよ。まったくもう」
「でも、考えてみて下さい。この肺で現実に彼女、今日までちゃんと生きてこれた訳ですから」
ん。言われてみれば確かにそうね。
「どうでしょう。無理さえしなければ、これからだって、何とかやってけるんじゃないでしょうか」
「無理さえしなければ、って」
顔を上げ、今度は縋るように早川の顔を見詰める響子だった。
「ですから、小さな肺に負担が掛からないように」
「うん」
如何にも深刻そうに腕を組み、重々しく続ける早川医師。
「少なくとも歌と踊りは、止めるしかありませんね」
えっ、そんなあ……。
「でも、歌はこの子の命」
「それでも諦めるしか……。彼女の場合、歌い踊ることで、小さな肺に限界を超えた負担が掛かってしまうのは明らか。下手したらそれが原因、致命傷となって、突然の窒息死だって考えられます」
「そんなああ」
顔面蒼白、響子の方が窒息死しそうな程。
「選択肢はふたつにひとつ。生か死か、生か歌かの、どっちかです」
「生か歌か。でも」
「でも?」
「そしたら折角の夢が。だってふたりの、ノラ子とわたしの夢は、まだ始まったばっかりなのよ」
「それは充分承知の上。わたしだって、実はわたしも和製パーフェクト・エンジェル、ノラ子のファンのひとりなんですから。非常に勿体無い、実に残念でなりません。しかし彼女の命には、代えられません」
響子をじっと見詰める早川。
「おかあさん!今直ぐ、引退の記者会見を開いて下さい」
引退、そんな。でも、やっぱりノラ子の命には代えられない……。
「ちょっと待って下さい。一応この子の気持ち、確かめないと」
「そうですね。わたしから、説得してみましょう」
響子はただ沈痛な面持ちで、病室の天井を仰ぐのみだった。
「でも不思議だなあ、本当に」
腕を組み、首を傾げるDr早川。
「は」
「医学的にはこんなこと有り得ない筈なのに、こんな小さな肺で生存していられるなんて。こうして本人を目の前にしても、まだ信じられない。一体何が彼女の生存を、その命を支えているんだろう……。もちょっと調べてみますから、ノラ子さんが起きたら呼んで下さい」
そう言い残すと、早川は一旦病室を後にする。
「ママ」
遂に熟睡していたノラ子が目を覚ます。響子は直ぐに早川を呼び寄せる。上体を起こしノラ子は大欠伸、寝惚け眼でぼんやりと窓の景色に目をやる。対してノラ子と向かい合った響子と早川のふたりは緊張。しかしわたしたちは、どうしてもそれを告げなければならない。何という梅雨の晴れ間の、澄み渡った空の青さよ。その目映さ、煌めきよ。わたくしたちにどうか、勇気を与え給え……。
「ノラ子さん」
「なあに」
「ノラ子、先生から大事なお話があるんだってよ」
「大事な話。どうしたの、ふたりとも。そんな緊張しちゃって。リラックス、リラックス」
ぐっすり眠れたせいか、ノラ子の体調は良さそう。
「実はわたしも、きみの熱狂的なファンなものでね」
「へーっ、そうなんだ。サンキュー」
「では早速だが、きみの検査結果について話そう」
「ノラ子、なんか病気なの」
昨夜のコンサートでの自らの症状を思い出し、流石のノラ子も顔を曇らせる。
「うん、でも病気ではない」
「ラッキー」
「いや。病気ではないが、もっと厄介な問題なんだ」
「て言うと?」
「きみの肺に、ちょっと問題があってね」
「はい?」
「詰まり何て言うか。きみの肺はね、普通の人より、かなり小さい、みたいなんだ」
「へーえ。でも肺が小さいと、なんか問題有んの」
「そりゃ大有りさ。空気を吸ったり吐いたりするのに、支障をきたすだろ」
「ふーん、そっかな」
「そうだよ。それでさっきわたしも、急いで調べて来たんだが。それによると、どうやら世界中でも極稀に、そういう人が生まれて来るらしい。不完全猫的再生症候群と言うそうなんだけどね」
「は、も一度言って」
「だから、不完全猫的再生症候群」
「へ。何、それ。長ーい名前。ノラ子、覚えらんない」
「別に覚えなくてもいいんだけどさ。どういう病気かっていうとね」
「うん。猫に関係あんの?」
「その通り。体の一部が、ちょうど成猫つまり大人の猫のサイズ分位しかない人がいるんだよ。例えば、肺は勿論、心臓、脳、胃、腸……。そういった重要な器官が小さいが為に、生きてゆく上で何かと支障が出るんだな。現時点では、恐らくきみもこれに該当すると見て、先ず間違いない」
「成ーる程。で、ノラ子、どうすればいいの」
「うん。これが肝心の話になるんだけど、落ち着いて聞いてくれ給え」
「ノラ子、落ち着いてるよ」
「あ、そう。じゃ結論を言うと、きみは何にもしなくていい」
「へ、やっぱりラッキーってこと?」
「そうとも言えない。何にもしなくていいってことは」
「いいってことは?」
「つまり歌ったり踊ったりも、しちゃだーーめってこと」
「はあ、何それ?冗談止めてよ、先生」
「冗談じゃない。歌ったり踊ったりしたら、それこそきみの猫みたいな肺に大きな負担が掛かって、最悪窒息して死んでしまうかも知れないんだよ。だからね、きみはもう絶対、絶対、歌っちゃ、だーーめ!」
毅然と告げるDr早川だった。
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