見出し画像

(小説)八月の少年(二十五)

(二十五)桜
 ネオンの波が途絶えると窓の外はまっ暗になった。日は既に沈み夜の帳が降りていた。何処を走っているのか灯りひとつ見えない。空を見上げても巨大な雲の群れが星の瞬きを覆い隠している。上空では強風が吹いているのか空を駆ける雲の流れは速かった。


 風の中にノイズが聴こえて来た。やがてノイズは声へと変わった。ラジオの声だ。何のニュースだろう?わたしは聞き耳を立てた。声は叫んだ。
『臨時ニュース、臨時ニュース』
 いかにも不安をかきたてるようなアナウンス。何だ、何が起こったのだ?
 ラジオの声はトーンを下げ静かに告げた。
『アメリカ合衆国大統領が、急死いたしました』
 何。いや、そうだ。そうだったのだ。ということは、だから結局あの4番目の手紙は届かなかったということか?或いはたとえ大統領の手元に届いたとしてもこれでは何にもならない。なんということだ、わたしたちの微かな望みを乗せたあの手紙。

 ラジオの声はそれきりノイズの中に吸い込まれた。ノイズもまた消え静寂が訪れた。
 けれどそれも束の間今度は激しい爆撃音が聴こえてきた。またも戦場か?空を吹いていた風が雲を連れ去り空には赤い炎が燃え上がった。
 燃えている、街が建物が、そして人々が。すべてを焼き尽くす炎の音がわたしの耳を覆った。
 何処だ?
 何処が燃えているのだ?
 何という国の何という街?
 ふと人の気配に気付いて振り返ると、そこには車掌が立っていた。車掌は燃えさかる炎の中のひとつの建物を指差した。
 夜の闇に身を隠した戦闘機の群れがそのひとつの建物を集中攻撃しているように見えた。
「何だね、あの建物は?」
 尋ねるわたしに車掌は静かに答えた。
「研究所」
「研究所?何の?」
 わたしは問い返した。車掌はやはり静かに答えた。
「あの国の」
「あの国?」
 言葉を繰り返すわたしに、わたしを見つめるように(おそらくそれは悲しい眼差しで)車掌はゆっくりとつぶやいた。
「ウラン濃縮に関する実験施設」
「なにーー」
 わたしの叫び声を残してけれど爆撃音も炎の音も消えた。

 空を焦がす戦場の炎が姿を消すと空には星が瞬いていた。遠い星のささやきさえ聴こえてきそうな程あたりはそして静かだった。わたしは星星の瞬きを見つめた。
 美しい、何という美しさだろう。
 わたしは走っている列車の窓から思わず顔を出した。満天の星。
 おや。
 その時ふとわたしの頬に白いものがひとつ舞い降りた。
 何だろう?
 まさか雪でもあるまい。手にとって見るとそれは桜の花びらだった。
 桜、春か。春。
 わたしは掌に乗せた桜の花びらを眺めた。気付くと列車は桜並木の中を走っていた。満開の桜が花びらを降らせていた。
 わたしの隣にはさっきから直立不動の車掌が突っ立っていた。
「春だね」
 わたしは車掌へと陽気に声をかけた。けれど車掌の声は哀しげだった。
「春ですね。後はもう」
「後はもう?」
 問い返すわたしに車掌はゆっくりと答えた。
「ただ後はもう、夏だけが残されました」
 夏だけが、1945年の夏だけが、残された?
 もう引き返せないんですよ。もう、なにもかも。
 わたしたちは、そこへ向かっているのです。

 わたしの掌に残った桜の花びらにふっと息を吹きかけ、わたしは桜の花びらを風の中に返した。春の夜空には満天の星が瞬いていた。

#アインシュタイン #リトルボーイ #マンハッタン計画 #原爆 #ヒロシマ #昭和天皇 #尾瀬
#創作大賞2024
#ミステリー小説部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?