見出し画像

年末のちょっとした話。

「おいしい問題。」バレンタイン前哨戦な年越しコバナシ。




 年末の過ごし方はいろいろだけど、今年はほづみくんお手製のフルコースで年越しする予定だった。
 それというのも、久しぶりにいいフォアグラが手に入ったから。
 コロナ禍で国際流通が止まり、人と物の行き来が再開したあとも、なかなかコロナ前と同じと言えるほどには戻らず、食材入手に難儀しているのはうちだけではない…とは聞いていた。
 コロナ前につき合いのあった業者が廃業していたり、流通量を減少させたままだったりで、人脈のあるほづみくんでもなかなか苦労していたのだ。
 それが、やっとなんとかなりそう、という話が聞けたのが十月ごろ。
 そして、クリスマス前に実際に仕入れたものが手元にやってくることになった、と。
 「国内で手に入るものだけでなんとかできるように考えるのも、今後のことを考えると必要だなって思うんだけどね。いろいろ試行錯誤して、なんとかなるものとならないものの見極めができた感じ」と言いながら、年明けからの新メニューを考えていた。
 その成果発表を兼ねて、大晦日はお家で特別ディナーをやる! と宣言し、ワインを仕入れたりもしていたわけだが。

「…大晦日なんですが、予定変更してもいいでしょうか」

 畏まった様子で、そう切り出したのが十二月に入ってすぐの頃。
 肩を落としてはいるが、いつもよりやたらと諦めを感じる表情で、実家に呼ばれたとかじゃなさそうと思いながら話を聞いたわけだ。
 そんで、本日大晦日。
 ふたり揃ってちょっとお洒落して、ワイングラスをかたむけております。
 新規開店する予定のビストロで。

「お待たせいたしました。トリュフの香りをつけたコンソメ、浮身はウサギのクネルです。ワインはシルヴァン&シャルルのパシュラン・デュ・ヴィック・ビル・セックを」
 目の前に置かれた白い深皿からふわっとトリュフが香る。
 濃い琥珀色のコンソメの中に大粒のクネルと緑の葉が浮き、盛んに湯気を立てる。
 一緒にやってきた脚の短いグラスには、淡い黄金色のワインが注がれ、否応なくテンションが上がった。
「美味しそう! いただきます」
 早速スープスプーンでコンソメを掬って、ひと口啜る。
 ビーフコンソメの濃厚な旨味と濃いめの塩気に、胃がぎゅわっと縮み上がった気がした。
 ウサギのクネルはチーズが入っているのかと錯覚するような風味と味わいで、でもほづみくんによるとうさぎだけを丁寧に叩いたものだろうと言う。
 コンソメを飲み込んだあとにワインを口に含むと、芳醇な葡萄の風味とコンソメが競い合うように口の中で合わさり、すぐに塗り替えるように爽やかなグレープフルーツの香りが鼻に抜ける。
 今日は予め料理とワインがマリアージュされたコースだから、何も考えずに楽しめるのがいい。
「和食でも美味しい汁物と日本酒って最高だけど、フレンチも一緒なんだねえ」
 グラス片手にしみじみする私に笑いを含んだ目を向けただけで、ほづみくんは何も言わない。
 話は簡単で、この店、ほづみくんの弟弟子さんの店なのだ。
 十二月になって、いきなり年末の予定を変更した理由は、ほづみくんが兄弟子さんの店にいた頃、目をかけていた弟弟子が独立して店を始めるという連絡が入ったからだった。
 暖簾分けというわけではないが、ほづみくんとは違ってシェフの来歴を前面に出した独立で、メディアの注目もそれなりにあるという。

『本格営業は年明けかららしいんだけど、大晦日に内輪の人間だけ呼んでお披露目会みたいなことやるんだってさ』
『それに呼ばれたと』
『うん。奥さんも是非一緒にって言ってるし……まあ、ちょい気にならない…こともない、感じで』

 よくわからないけど、珍しくほづみくんが気にかけている様子だったし、私には反対する理由もない。
 入手予定のフォアグラはパテにして正月に楽しむ算段もつけたと言うから、予定変更したわけだ。
 繁華街の端のほうにあるビルの地下階にある店は、新店だけどクラシカルなインテリアと、どうやらユーズドらしいテーブルと椅子でパリの老舗ビストロのような雰囲気だ。
 コンソメを平らげ、グラスに残ったワインを楽しみつつ、さりげなく店内を見回す。
 席数が多いわけではないが、その分スタッフの目は行き届くだろうし、お客のニーズに細やかに対応しやすい動線を作ってあるように見える。
 席数に対してスタッフは少なめだけど、今日は内輪の会だからかもしれない。…けど、司令塔らしきスタッフ、余裕ないな。
「桜子さん、目が笑ってない」
「ん、つい」
 こちらも皿を空にしたほづみくんが苦笑いしている。
 実家を出て十年以上、飲食業のバイトからも離れてだいぶ経つのに、ついついそういうところを見てしまう癖が抜けない。
 でも、それはほづみくんも同じらしく、店に入る前に、「僕、今日は料理の感想は封印する」と宣言した。
 何しろ、弟弟子さんがチラチラチラチラ厨房の小窓からこっち見てるもんで。
 兄弟子たちの反応、気になってるんだろうなあ。
 続いて出てきたのは、カリフラワーのピューレを添えたミントと蟹のタブレ。
 食感よく仕上げたクスクスに混ざったミントの爽やかさと、上にてんこ盛りになった蟹の身。それにたっぷりのピューレを混ぜて食べると、まろやかさに爽やかさを感じる一品だ。
 蟹のおかげで物足りないと思うこともない。
 これに合わせるのは、キュヴェ・トゥーレーヌ・シュナンソー・ブラン。
 トロピカルなフルーツの風味豊かな白ワインと、ミントとシーフードのタブレは相性抜群だ。
 アントレに続くポワソンは、鯛とオマール海老のポワレ。ソースはアメリケーヌで、典型的なビストロメニュー。
 樽香豊かなドメーヌ・フローラン・ガローデのムルソー・ヴィエイユ・ヴィーニュは、白でありながらまったりとしたバターのような味わいで重めのソースともよく合う。うっかりすれば魚介の味を損ねかねない組み合わせだけど、ワイン自体に残るフルーツ香が鮮やかで口当たりが良くなるだけに留めている。
 絶妙な火の通り加減の鯛を噛み締め、なんとなく首を捻った。
 気づいたほづみくんが「どうかした?」と聞いて寄越す。
「や、同じお店出身だからだと思うんだけど、ほづみくんの料理に似てるなって」
「…そう?」
「あと、ワインとの合わせ方も。これとか、うちのバータイムに出てきても違和感ない」
「…なるほど」
 何に納得したのかよくわからないが、何やら頷いている。
 ワインの香りを確かめるようにグラスをかたむけ、フォークの先で掬ったソースだけを口に入れ、と普段しない食べ方だから、絶対頭の中ではいろいろ考えてるんだと思うけど。
 メインは何かなーと楽しみに待っていると、よく知る匂いが鼻先をくすぐった。
 あれ、これ…。
 鼻をひくつかせる私の向かいで、ほづみくんはやっぱり苦笑いだ。
「本日の肉料理、牛肉とフォアグラのパイ包み焼き、ペリグーソースです」
 おお…いいフォアグラが入ったときしか作ってくれないけど、ほづみくんの得意料理じゃん。
 正方形に近い形のパイはいい塩梅に焼き色がつき、添えられたソースも濁りがなく深みのある色だ。
 まずはとパイをざっくり真ん中で切ってみた。
 血の色がしっかり残る牛肉とフォアグラが綺麗な層になっている。
 一口大にして、たっぷりソースを絡めて口に入れた。
 ん、ん、これ、かなりのランクのフォアグラ使ってるな。
 赤身肉の歯応えと旨みに、フォアグラのコクと香り。甘味が勝つソースのトリュフが絶妙なアクセントだ。
 だがしかし。
 はっきり言うと、私好みではない。
 いや、美味しいのは間違いないんだけどなんだろうなー、香り? 旨み…の種類がほづみくんのソースとは違う、気がする。
 甘味も結構なもんだし……。
「これ、何由来の甘さなんだろ」
「カラメルだね」
 料理と一緒に出された赤ワインを何か吟味するように味わっていたほづみくんがあっさり言った。
 つい目が丸くなる。
「食べてないのにわかるの?」
 彼の手元の肉用ナイフは、まだ綺麗なままだ。
「匂いと、このワインで」
 丸くふくらんだリムの中で軽く揺れたワインは、綺麗な深みのある葡萄色だ。
「ひと口飲んでみるといいよ。印象変わるはずだから」
 勧められるまま、グラスから口に含むと、鼻に抜ける香りが一気に強くなった。
 トリュフのクセが一気に打ち消され、焼き菓子にも似た甘さの残る匂いがぐわっとふくらむ。
「んっく…なんか、すご…」
「結構冒険だと思うけど、この辺は好き好きだから」
 グラスを置いてカトラリーを取り、綺麗に切ったパイを口に入れた。
「このソース、ほづみくんのとは系統違うよね?」
「うん。僕はカラメルは使わない」
「ペリグーソースって聞くとトリュフとマデラ酒使ってるってことしか出てこないんだけど。カラメル使うのって珍しいの?」
「や、全然。教本の類にも載ってるくらいだよ。まあ、どんな料理でもそうだろうけど、時代によって好まれる味が変化して基本って言われるレシピも変わるってのは珍しくないから、あんま参考にはなんないけど」
 少し考えるように首を傾げ、軽く頷いた。
「僕のレシピも、このソースも、フォンドヴォーを使ってるけど、本来って言われるソース・ペリグーってのはデミグラスを使うんだよ。マデラとフォンドヴォーはいわゆる代用レシピなんだ」
「え、そうなの? デミグラスってかなり味、変わらない?」
「変わるね。相当濃くなるし、現代フレンチではあんまり好まれない。今は、ソースにはフォンよりジュを多用する傾向もあるくらいだし」
 ジュは素材の持ち味を活かすように短時間で抽出した水分質のことで、フォンよりもずっと簡単にとれる。その分、フォンのような奥行きのある旨みや味わいはあまりなく、軽い仕上がりになりやすい。
 ほづみくんはワインを口に含み、軽く頷いてじっと皿を見つめた。
「カラメルを使うのは、僕の師匠のレシピでさ」
「そうなの?」
「でも、本人は晩年近くには古臭い上に、今の素材の味とは相性が悪いって全然作ってなかったんだ」
「へーっ」
 興味をそそられて、付け合わせのアリゴでソースだけを掬って口に入れてみる。
 濃いめのチーズと練られたじゃがいものピュレと合わせると、確かにカラメルのほのかな風味を感じた。
「そういや、フレンチってお酢と砂糖で万能調味料的カラメル作るよね?」
「ガストリックのことだね。このソースに使ってるのとは別物だけど」
「あ、そうなんだ」
「あれはねー、本当に隠し味的なものだから。いくら桜子さんの味覚嗅覚が常人離れしてるって言っても、ダイレクトに感じられたらそれはそれでどうかと思うし、その状態なら美味しくもないはずなんだよ。このソースのカラメルはコク出しと食味の調整役だね」
「なるほど」
 同じ料理食べても受け取る情報量が全く違うんだろうなと思いつつ、サクサクのパイ生地と牛肉、フォアグラを頬張った。
 ん、ワインと合わせて慣れてくると、これはこれでいい感じかも。
 私の場合、ほづみくんの料理に慣れすぎてるってのもあるんだろうな。
「このワイン、美味しいんだけど不思議な味わい」
 グラスの中で暗いルビーのような色が揺れる。
 ひと口目はベリーっぽくてフルーティ系かと思うのに、すぐによく知るスパイスの香りがいっぱいに押し寄せて賑やかだ。そのわりに、後口はさっぱりしていて料理の重さを軽減する。
「わりと希少…確か生産数が九千ちょっとでね。僕も飲んだことなかった」
「……お高いやつ?」
 卑しいかなと思いつつ、凡人なのでそっちに意識が向く。ほづみくんは笑って首を振った。
「や、店で買っても一万ちょっとくらい。これ、原産地呼称がヴァン・ド・フランスなんだよ」
 原産地呼称制度、Appellation d’Origine Contrôléeは日本でもAOCという表記で浸透しつつある。ワイン好きには基本のキと言っていい知識だろう。
 ブルゴーニュやボルドーのようにワインの名生産地の名前を冠したワインを名乗るには、AOCに定められた厳しい基準をクリアする必要がある。
 有名なのが「シャブリ」で、「シャブリ地区」の境界線を明確に定め、その地域内で栽培された葡萄を使ったものしか「シャブリ」を名乗ることは許されない。
 ほづみくんが言うヴァン・ド・フランスとは、「フランスワイン」…つまりは二生産地以上のワインを混ぜて作られたもの、ということで、ランクとしては一生産地の葡萄だけで作ったワインより落ちるのだ。
「確か、南ローヌとボルドーが混ざってたんじゃないかな」
「どっちもワインが美味しい地域なのに、混ぜると位置付けが低くなるの、不思議だねえ」
「確かに。フランスのAOCも、ここ何年かで問題点が指摘されてるし、これから変わっていくのかもしれないけど」
 話しながらも、料理が冷める前に平らげた。
 私たち、こういうとこも似てる。出されたものは温度が変わる前に食え。
 最後は熱々のチョコレートスフレ。
 これには、アンリ・ジローの甘いラタフィアがついてきた。
 軽い食感のスフレのあとに金色のとろりと濃厚なワインを口に含むと、とんでもなく贅沢な味わいになる。
 これもスフレが萎む前にと、舌を火傷しそうになりながら完食した。
 食後の紅茶を楽しみながら、満足のため息をつく。
「気合い入ったコースだったねえ。おなかいっぱい」
「ん。…このあと、どうする? この近く、バーも多いし、大晦日でも夜通し営業してるとこばっかりだから寄り道できるけど」
「バーかあ」
 ワインたっぷり飲んだから、お酒より濃いめのミルクティとかカフェオレのがいいなあってのが本音なんだけど、ほづみくんの顔を見ていると、なんとなく飲み直したい気分なのかもという気もする。
 そういや、今日のお呼ばれ自体、なんか考えてそうな感じだったもんね。
 ストレートのセイロンを啜り、モクテル楽しめばいいか、と思ったときだった。
 ふと影が差し、顔をあげるとコックコート姿の男性がテーブル脇に立っている。
 さっきから、他のテーブルに挨拶に回っているのが見えていたから、驚きはしない。
「今日はありがとうございました。ほづみさんも、奥様も」
 醤油顔イケメンと言われそうな顔立ちのコックコート姿の男性が、きっちりと頭を下げた。
「お疲れさん。楽しませてもらったよ」
 ほづみくんが言うと、男性は少し顔を綻ばせた。
「桜子さん、彼がこの店のオーナーの木崎政彦。フランス時代からのつき合いなんだ」
「木崎です。奥さんのことは、少しですがいろいろ聞いています」
 それは本当に少しなのかと腹で呟きつつも、社会人として挨拶はきっちりしておく。
「夫がお世話になっております。お料理、とても美味しかったです」
「よかったです。普段からほづみさんの料理を召し上がっている方のお口に合うか、かなり緊張していたので」
 言葉だけ聞くと皮肉っぽいけど、顔が完全に裏切っている。
 めちゃくちゃ気が抜けた様子で笑っているのだ。
「俺だって、毎日フルコース作ってるわけじゃないぞ」
 ほづみくんが言えば、木崎さんはやたらと深いため息をついた。
「たまに賄い作っては、若手の自信木っ端微塵にしてたスーシェフが言わないでくれますか」
「…ほづみくん、そんなことしてたの?」
 スーシェフが賄い作るってのも、実家しか知らないからもしれないが聞いたことがない。賄い作りって、若い料理人が実力披露したり、自分の勉強の成果を周りに見せて意見をもらうものだと思っていた。
 本人は、軽く眉を上げるだけだけども。
「みんな、腕の見せ所だからって凝ったものばっかり作るんだよ。飽きるだろ」
「…あんま言いたくないけど、上司としては最悪じゃないの」
「え、そう?」
 今まで考えたことがなかったけど、この男が上司の職場って、真面目な話、働きやすさとかどうだったんだろうな。
 目の前の木崎さんに聞いてみたくてウズウズするが、ほづみくんが「今日の料理」と切り出したことで空気が変わった。
「あの方向性でいくんだな」
「はい。どうしても、やってみたくて。…無謀、ですか?」
 なんの話かさっぱりわからないけど、私はわからなくていいことだろうと思うから、黙って見守る。
 木崎さんの顔、なんか切羽詰まってるし。
 でも、ほづみくんはあっさりしたものだった。
「さあ? 俺は第一線から離脱してるし、興味もないからわからん」
「…そういうひとですよね」
 深々とため息をついた木崎さんに、なんとなくこのふたりの関係性が見えた気がした。
 私、どっちかというと木崎さん寄りな人間な気がする。てーことは、ほづみくん、結構タチの悪い上司だったんでは…。
「でも、ノアがそれでオッケー出したんなら、可能性はゼロじゃないってことだろ」
 ほづみくんの視線が、少し離れた席にいる外国人客に向いた。
 ここに来た最初のタイミングで私もご挨拶をした、ほづみくんの例の兄弟子さんだ。
 お師匠さんが故人になったあと、一番弟子としてフランス本店の運営と日本支店の経営をしているひとで、ほづみくんもなんだかんだ言って頭が上がらないらしい。
「ま、ジャックはあの世で怒り狂ってるかもしれないけど。俺の味の継承なんて無意味なことすんな、自分の味を開拓しろって」
「同じこと、ノアにも言われました…」
 ジャックはわかる。今は亡き、ほづみくんのお師匠さんだ。
 後進の育成には熱心でも、自分の後継者とかには興味がないひとだったってチラッと聞いたことがあったけど、本当っぽいな。
 でも、木崎さんはお師匠さんの味を後世に残したいって気持ちが強いのかもしれない。
 メインのソースの味を思い出す。
 私には甘みが強いと感じるものだったけど、あの味の濃さは、昔実家の研修旅行で散々食べさせられたフレンチに通じるものがあった。
「古き良きフレンチ…?」
 自分は傍観者だと思ってぼんやり物思いに耽っていたせいで、ぽろっと口からなんか出た。
 ふたりの視線を感じてハッと我に返る。
 ほづみくんは苦笑いで、木崎さんは珍獣でも見つけたような顔だ。
「桜子さん、ズバッと言うねえ」
「え、いや、他意はないのよ。率直な印象っていうか」
「ほづみさんの奥さんって、フランスにいたことが?」
 私の実家のこととかは何も言ってないのかとほづみくんを見ると、目で頷かれた。なるほど。
 少し悩んだけど、完全に過去のことだし、隠すことでもないし。
「実家がフレンチレストランをやっていたので。研修旅行なんかにもつき合わされてたんですけど、私自身は食べる専門です」
「そうなんですか。…うちの味、古臭いですか?」
 真面目な顔で聞かれても、この状況で頷けるわけなかろうよ。
 それに、古臭いと言うのとは、ちょっと違う気がする。あえて言葉にするなら、懐古主義とでも言うのだろうか。
「古い新しいはわからないんですけど…昔食べたことがある料理と似ているところがあるなと思っただけで」
 思い出せる店名をいくつか並べると、木崎さんの眉間に難しげに皺が寄る。
 あああああ〜どうしよう、フォローの仕方がわからーん。
「でも、アントレやポワソンは夫が作ってくれるものとよく似ていると思いましたし、アクセントとしてああいう料理があるのもお店の味じゃないですか」
「ほづみさんの料理と…似てましたか」
「そうですね。とても美味しかったです」
 精一杯褒めたつもりだけど、なんかほづみくんの顔がビミョー。
 木崎さんも……もしかして、兄弟子の料理と似てるって褒め言葉にならない…のか?
 これ以上何か言っても、墓穴が深くなるだけのような気がして、口を閉じた。
 尻拭いはほづみくんに任せよう。
 でも、なぜか旦那さんは意味ありげな顔で私から木崎さんに視線を移した。
「立ち直れそう?」
「……本格始動までにはなんとかします」
「頑張れ」
 え、なんかすっごい不穏なんだけど。
 でも、真面目にどこに地雷があるか見当もつかないから、余計なことは言えない。
 食べたものが全部冷や汗と脂汗になる心地で、この店、二度と来られないかもと腹で呟いたのだった。



 店を出たあと、近くのカフェバーに潜り込んだ。
 ソファ席が多く、照明を落とし気味の店内は酔い覚ましに寛ぐのにちょうどいい。
 窓際のテーブル席でソファに並んで座り、私は普通のロイヤルミルクティ、ほづみくんはアイリッシュコーヒーで乾杯し直した。
 アールグレイと蜂蜜でまったり濃ゆい紅茶を飲み込んで、ぴったりくっついているほづみくんにもたれかかる。
 窓に向かって座る席で、今は向かいの雑居ビルの明かりがガラスの向こうでピカピカ光っている。大晦日だけど、この辺りは大抵の店がそこそこ賑わっている。
「はー、お茶が美味しい」
「結構飲んだとは思うけど、いつもと比べて多いわけでもなくない?」
 耐熱カップ片手に首をかしげる旦那の足、ちょっと踏んでやりたい気分だ。
「最後、妙な感じで終わっちゃったでしょ。ほづみくん、フォローしてくれないし、悪酔いしそうだったの」
「最後…ああ」
 ため息をつくように少し笑う。
 フロートしたクリームと下の層のコーヒーを器用に啜り、「まあ…」と頷いた。
「桜子さん、見事に木崎の急所、三段突きしたからねえ」
「それ。なんかマズいこと言っちゃったんだろうなとは思ったんだけど、何がダメだったのかはわからないからフォローもできなかった」
「別に失礼なこと言ったわけじゃないよ。あいつがわざと目を逸らしてたのが問題なわけで」
「何から?」
「僕らの会話聞いてて、なんとなく察してると思うんだけど、木崎は師匠の味を継承っていうか、残したくて独立したとこがあってさ」
「ああ、うん」
 それは、うっすらとわかった。
「それが師匠の本意じゃないだろうとかは…まあ、生きてるもん勝ちってことで置いとくとして」
 置いとくのか。
「ノア…兄弟子が好きにしろって言ったんだから、好きにすればいいんだけど、木崎の料理、言葉を選ばなければ中途半端なんだよ」
「それは……ほづみくんの料理と似たものも作るのに、お師匠さんのレシピも残したいと思ってること?」
 私の言葉に難しい顔をしていた木崎さんを思い出す。
 ほづみくんの料理と似ているという私の言葉に引っかかっていたことは、間違いない。
「うん。僕の料理…ノアの店の料理って言ってもいいんだけどさ、それを継承するというか、オマージュした料理を自分の店で出すことは円満独立だし、問題ないわけ。でも、桜子さんも思わなかった? あのメインだけ、なんか場違い…浮いてるって」
「…思った」
 ポワソンまでが現代的な、でもお行儀のいいフレンチだったのに対して、あのパイ包みは半世紀くらい時間が戻ったような印象だった。
 濃くて、重くて、あとに残る味と食後感。
「美味しかったし、ワインとのマリアージュは抜群だったよ。でも……ワインがないと、違和感が大きいなって思ったし、コース全体のバランスを見たときにちょっと……歪だなあって」
「僕も。木崎もソムリエ資格持ってるし、今日のスタッフにもソムリエバッジつけてるのがいたから、料理の違和感をワインで埋めるのは難しくなかったはずなんだ。でもさ、僕らは出されたものを抵抗なく飲めるけど、そうじゃないお客さんもいるわけだから」
「ああ…。料理だけで楽しめる料理かってことか」
「そゆこと」
 重い陶器製のマグカップから甘い紅茶をひと口飲んで、考える。
 確かに一部だけお師匠さんのレシピの再現でいくなら、しんどいかもしれない。でも、最初からそういうコースだと思ってしまえば、そういう店だって思われ……あ。
「木崎さん、兄弟子さんの店から独立って公表してるんだよね」
「うん」
「なら、お師匠さんと兄弟子さんの味を継承していく店なんだなーって思ってもらえれば、やっていけるんじゃない?」
「師匠はともかく、ノアは現役なのに?」
 速攻でツッコまれて、それもそうかと納得するしかなかった。
 どこか生ぬるい目でコーヒーを啜り、ほづみくんは「ついでにね」と続ける。
「木崎って、師匠の料理をそこまで知ってるわけじゃないんだよ。あいつが店に入ったころは、だいぶノアに譲ってたから」
「え? なのに、残そうとしてるの? なんで?」
「んー…ノスタルジーっていうか……単純に、桜子さん曰くの古き良きフレンチが好きっていうか」
「…お店、大丈夫かな」
 余計なことだとわかっていて、つい心配になってしまう。
 でも、ほづみくんはあっけらかんと頷いた。
「ちゃんとパトロンだかパトロネスだかいるらしいから。でなけりゃ、三十前で独立なんて無茶だよ」
 父の遺産で店を開いただけあって、説得力がある。まあ……ほづみくん、お父さんの遺産がなくても、スーシェフのころの貯金だけで店できたと思うけど。
 兄弟子さんの店に勤めていたとは言え、ほづみくんの料理目当てのお客も多かったみたいだし、報酬もそれ相応だったっぽいんだもん。
「経営はアドバイザーもつけてるだろうし、僕みたいに二年も閑古鳥の飼育員なんてこと、ないはず」
「…一般論として、出資者がいたら二年も大赤字状態、見逃してくれないんじゃない?」
「…かな」
 くっとグラスを呷り、ふーと息をつく。
 どこか物憂げな顔で窓を見つめる視線を追うと、ガラスに映っていても整った顔と能天気な私の顔。
「うちの…師匠の弟子たちって意味なんだけど、独立して成功した例って少なくてね」
 初耳だった。
 というか、ほづみくんからこの手の話を聞いた記憶自体が殆どない。
「ノア…兄弟子と、彼の同期が……ふたりくらい。あとは僕と、僕の弟弟子格がやっぱりふたり…木崎を入れたら三人か。僕の同期も何人かいるけど、殆どが店は手放してるはず」
「他の人たちは…」
「独立してもなかなか上手くいかなくて店を畳んだり、別業種に転職したり…他の店に雇われたり、出戻ったり。みんな、同じこと言うんだよ。師匠とノア、ときどき僕の影響からどうしても抜け出せなかったって」
「それはー…ダメなことなの?」
 実家の店にいたスタッフたちは、本当にいろいろだったと思う。
 父の料理を到達点にしていたひとや、元KINOGAWAのシェフだったことを売りにして同じ系統の料理を提供する店を開いたひと、オリジナリティを求めて試行錯誤していたひと。
 私が知る限り…実家にいた間ということだが…、みんなそれなりに上手くやっていた。
 瀬良さんだって、「KINOGAWA時代を知ってるお客様に、道永さんの菓子を彷彿とさせるねって言われたんですよ」ってかづみさんに嬉しそうに言ってたらしいし。
 誰だって目指すものや目標があって、その影響を受けること自体が悪いのだとは思えない。
 ほづみくんは少し考えるように首をかしげていたが、ややして「ダメじゃないと思う」と頷いた。
「僕だって独創性にあふれたオリジナルメニューとか苦手だし、師匠からもノアからも影響はバッチリ受けてる自覚あるしね」
「じゃあ…」
「ただ、他人の影響を受けていても、これは自分のレシピだって胸を張る自信がないと、保たないんだと思う」
「…メンタルが?」
「うん」
 私の腰に腕を回し、ひとつ息をついた。
「木崎もね、フレンチ以外の料理はかなりぶっ飛んだものを作るんだけど。賄いとか」
「美味しいの?」
「美味いよ。でも、フレンチになると、自分がガチガチに固めた枠から出られなくなるっぽい。ベースはノア、アレンジの仕方は僕、でも理想とするのは師匠って」
「なんか…難儀なひとだね」
 自分で三すくみの結界作って、真ん中に座ってるみたい。
 そう思う一方で、ほづみくんの周りのひとたちにとって、ほづみくんや兄弟子さんに出会ったことはとんでもない災難だったのかもしれないという気がする。
 食べる専門の私でも、ほづみくんの腕前がとんでもないものなのだとはうっすらとわかる。
 正直、よく兄弟子さんが隠遁生活みたいな独立を許したなと思うことはあるのだ。
 ほづみくんの気質や性格がスーシェフとか高級フレンチ店のオーナーには向いていないことはよくわかるけど、それでも町の小さなカフェの店長にしておくのはもったいなさすぎる。
 ま、言う気はないけどさ。
「お手本や目標も、大きすぎると害になるってことかあ」
「そんなたいしたもんじゃないんだけどね。ノアはともかく、僕への評価は過大だよ。独立するっていうから、その辺、整理ついたのかと思ってたんだけど」
「ついてなかったのかあ」
「なかったねえ」
 しみじみ呟いて、そばを通ったスタッフにノンアルコールのカフェオレを頼んだ。
 私は私で冷めてきた紅茶をコクコクと飲む。
 一気に半分くらい空けて、ふと思い出しだ。
「ほづみくんが気がかりそうにしてたの、それだったの?」
「気がかりそうだった?」
 意外そうな顔だから、自覚はなかったらしい。
「ちょっとね」
「そっか」
 呟いて、もたれる私の頭にコツンと頭をぶつけるように傾けた。
「最後まで面倒見てやれなかったから、門出くらいはって思ったんだよ」
「うん」
「今日のコース食べて、こいつ大丈夫なのかとも思ったけど、まあ言えるわけないし」
「だね」
「でも、桜子さんが無邪気にズバッと言ってくれたから、助かった」
 それでまた思い出した。
 己の失態を。
「今の話聞いたあとじゃ、私、とんでもないKYなんですけど」
 本人が一番言われたくないことを部外者の分際で遠慮なしに……あ、居た堪れなくて死にそう。
 だけど、ほづみくんはあっさりと首を振った。
「桜子さんみたいな、これまでの木崎の料理を知らないひとから言われたってことが重要なんだよ」
「そうかなあ…」
 逆に腹立つだけじゃないかと思うんだけど。
 それに、営業開始まで実質二週間もないのに、今更言われてもって感じじゃないのかなー。
 悶々とする私をギュッと抱き寄せて、ほづみくんはハーッと息をついた。
 なんとなく、今までの言葉の代わりに吐き出していたものとは種類が違うな、と感じる。
「実際のとこ、ギリギリまで行くか悩んでたんだけど、行ってよかった。桜子さんのおかげ」
「私、真面目に何もしてませんけども」
「一緒に来てくれただけで十分なんです。特別ディナー、見送ることになったけど」
 確かに、ほづみくんが本気出したフルコースってうちでもなかなか食べられないし、絶対ワインも拘っただろうから、惜しいことしたなーとは思う。
「んー、でもたまには、外でフルコースっていうか、よそ様のものをしっかり味わうのもいいかもって思ったよ?」
「そう?」
「うん。特別ディナーも楽しみだったんだけどね、それだとほづみくんはサーブしながらだから、今日みたいにふたりでじっくりのんびり話しながら料理を楽しむのって無理でしょ」
「それは…まあ」
「大掃除してお疲れ様だし、ほづみくんの料理ほどじゃなくても美味しいもの食べて、ワイン飲んでゆっくりお喋りしてって楽しいもん」
「…そっか」
 軽く目を丸くしたものの、拍子抜けしたような顔でだらっと私にもたれかかった。
 重いので一緒にソファの背もたれに倒れ込む。
 満腹感とまだ残っている酔いに任せて暗い天井を見上げて、なんとはなしに今日の料理を思い出した。
 どれも美味しかったけど……やっぱ、あのパイ包みは私の好みじゃなかったなー。
「ねえ、ほづみくん」
「んー?」
 ソファの背に後頭部を預けてぼんやりした顔のまま、こちらに視線を向ける。
「うちのフォアグラって、もうパテにしたの?」
「大部分はね。せっかくだから、正月にソテーにして楽しもうかと思って、ちょっと残してるけど」
「なら、それでパイ包み作って欲しいな。ほづみくんの食べたい」
「牛肉の?」
「鴨肉でもいいけど。ペリグーソースはつけて欲しい」
 少し目を瞬かせ、ふっと笑った。
「いいよ。でっかいやつ、作ろっか」
「やった!」
 私の腰に回したままだった腕に力を込めて引き寄せ、デコに唇を押し当てる。
 暗いし、周りは大晦日でハメを外しがちなグループが多くて賑やかだしで、目立つことはないだろうとぎゅうっと抱きついた。
 大きな手が髪を梳くように動いて、頭を撫でてくれる。
「どうせあとちょっとで年が明けるし、初詣してから帰る?」
「初詣って…あ、ちょっと行ったとこに大きい神社、あったっけね。…ほづみくん、いつもより酔ってそうだけど、行ける?」
「大丈夫。酔ってるっていうか、なんか脱力しただけだから」
「弟弟子を見送れて安心?」
「ではないんだけど。僕が言うのもアレだけど、結構すぐにいろんな問題出てきて愚痴吐かれるだろうし」
 妙な説得力がある。
 「お待たせしました」と湯気を立てるマグカップがやってきて、揃って身を起こす。
 ひと口啜り、「あ、やっぱ美味い」と頷いた。
「アイリッシュコーヒーが美味かったから期待してたんだけど、当たり」
 差し出されたカップからひと口もらうと、カフェオレのわりにしっかりしたコーヒーの苦味と香りが感じられる。
「チョコレートと合わせたい感じだねえ」
「いいね。カクテルに使うの前提でブレンドしてるのかな」
「かも。うちのお店の豆はマイルド系だけど、こういうのも美味しいね」
「スパイスカフェオレの豆、ちょっと研究してみようかなあ」
「あれの豆だけ? コスパ、悪くならない?」
「…どう思う?」
 ぴったりくっついて、ああだこうだと取り留めなくいろんなことを話すのも楽しい。
 家だと人の目を気にせずマイペースでいられるし、私たちには向いている過ごし方だと思うけど、たまには片付けや後のことを考えずにまったりするのもいい。
 年明けすぐ、同じような理由で遠出することになるとも思わず、今年最後の数時間をまったりと楽しんだのだった。





*お断り*
今回のコースは大阪心斎橋の実在するビストロのワイン会で提供されたメニューです。あまりに美味しく、備忘録を兼ねて丸っと使わせていただきました。
パイ包みについては、筆者にとってnot for meだった他店のものを参考にしていいます。
パイ包みに合わせたワインはMATTHIEU DUMARCHER Odyssée2019です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?